南部佐竹の領界争いとキリシタンの詮議とは? わかりやすく解説

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南部佐竹の領界争いとキリシタンの詮議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/27 00:19 UTC 版)

白根金山」の記事における「南部佐竹の領界争いとキリシタンの詮議」の解説

白根金山は、南部藩秋田藩の藩境に位置しているが、天正の頃からこの地は南部氏秋田氏攻防の地でもあった。1602年慶長7年佐竹氏常陸より秋田転封された頃は、あたかもこの地区の諸金山開発され始めたであった金山巡って領界争いが両藩の間で起こるが、慶長14年頃から始まり寛永から慶安にかけて両藩は幕府にそれを訴えた。これは西通金山大葛金山などの所在紛争の原因になっていたが、幕府の裁定出たのは、やっと1677年延宝5年であった。この結果西道金山小坂村南部領大葛金山長木川森林地帯秋田領と定まった。この両藩の論争の間に、激しキリシタン詮議が行われた。鉱山には治外法権的な慣習があり、諸国キリシタン教徒奥羽鉱山潜伏先求め情勢にあった1636年寛永13年)、南部重直幕府からキリシタン逼塞命じられた。1638年寛永15年南部秋田論地山中キリシタン潜伏の風説伝えられ幕府から両藩に詮索の令が下った。両藩は12月13日それぞれ人数出して山狩り行ったが、両藩の士卒農民乱闘になり、そのため数名の者が処刑された。キリシタン詮議は厳重であったので白根鉱山では1643年寛永20年正月から操業停止された。6月25日には操業再開願い金山一同から藩の家老向けて願い出されている。1651年慶安3年2月白根金山の長左衛門という者がキリシタンであると3人の者が訴えだした。長左衛門逃亡した捕らえられ盛岡入獄した。訴えた1人はなぜか白根鉱山逃げ出し八戸捕まった。長左衛門江戸で詮議受けたが、改宗したのか赦免になり白根鉱山戻された。

※この「南部佐竹の領界争いとキリシタンの詮議」の解説は、「白根金山」の解説の一部です。
「南部佐竹の領界争いとキリシタンの詮議」を含む「白根金山」の記事については、「白根金山」の概要を参照ください。

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