南部佐竹の領界争いとキリシタンの詮議
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「白根金山」の記事における「南部佐竹の領界争いとキリシタンの詮議」の解説
白根金山は、南部藩と秋田藩の藩境に位置しているが、天正の頃からこの地は南部氏と秋田氏の攻防の地でもあった。1602年(慶長7年)佐竹氏が常陸より秋田に転封された頃は、あたかもこの地区の諸金山が開発され始めた時であった。金山を巡って領界争いが両藩の間で起こるが、慶長14年頃から始まり、寛永から慶安にかけて両藩は幕府にそれを訴えた。これは西通金山や大葛金山などの所在が紛争の原因になっていたが、幕府の裁定が出たのは、やっと1677年(延宝5年)であった。この結果、西道金山や小坂村は南部領、大葛金山や長木川の森林地帯は秋田領と定まった。この両藩の論争の間に、激しいキリシタンの詮議が行われた。鉱山には治外法権的な慣習があり、諸国のキリシタン教徒は奥羽の鉱山に潜伏先を求める情勢にあった。1636年(寛永13年)、南部重直は幕府からキリシタン逼塞を命じられた。1638年(寛永15年)南部秋田論地の山中にキリシタン潜伏の風説が伝えられ、幕府から両藩に詮索の令が下った。両藩は12月13日にそれぞれ人数を出して山狩りを行ったが、両藩の士卒農民が乱闘になり、そのため数名の者が処刑された。キリシタン詮議は厳重であったので白根鉱山では1643年(寛永20年)正月から操業が停止された。6月25日には操業再開の願いが金山一同から藩の家老に向けて願いが出されている。1651年(慶安3年)2月に白根金山の長左衛門という者がキリシタンであると3人の者が訴えだした。長左衛門は逃亡したが捕らえられ盛岡で入獄した。訴えた1人はなぜか白根鉱山を逃げ出し八戸で捕まった。長左衛門は江戸で詮議を受けたが、改宗したのか赦免になり白根鉱山に戻された。
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