南部ラップの時代 (1998年以降)
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「ヒップホップ音楽の歴史」の記事における「南部ラップの時代 (1998年以降)」の解説
デス・ロウの崩壊後、Gファンクの人気は急激に衰えた。スキャンダラスな銃撃事件によって、ヒップホップ産業を取り巻く環境は変化した。西海岸のギャングスタ・ラップへの社会的な印象は非常に悪くなっていた。 1990年代後半、南部のヒップホップはノー・リミットやキャッシュマネーレーベルの活躍で広く知られるようになった。1990年代は、ヒップホップの要素は他のジャンルの音楽、例えばネオ・ソウルと合体し、多くのスターがコラボレートされた。 1998年のビッグ・パンの出現はシーンの一つのエポックだった。2000年に肥満で死ぬ前に、ビッグ・パンは「ギミック」やマーケティングの仕掛けなしで、スキルのみで大きな注目を集めた。その年、DMXがデビュー作『It's Dark and Hell Is Hot』をリリース。パフ・ダディやジェイ-Zのような、ライフスタイル志向のラップでヒットした。 1999年、ドクター・ドレーは、シングル『Forgot About Dre』でエミネムをフィーチャーしてチャートの上位に登った。続いて、エミネムのデビュー作『The Slim Shady LP』は、多くの郊外在住の白人の若年層の共感を得て、100万枚を売り上げた。続くアルバムも大ヒットし、マイノリティに支配されていたシーンには白人のファンが入ってきた。エミネムはポップカルチャーのアイコンとなり、2002年にアカデミー賞を受賞する。 2004年、カニエ・ウェストのアルバム『The College Dropout』は、トゥイスタ、コモンといった長年のアーティストと共にシカゴのシーンを改めて注目させた。2005年、ザ・ゲームがデビューすると、再び西海岸、特にベイエリアにスポットライトが当てられた。 1990年代後半までには、アトランタはヒップホップの主要都市になり今日まで続いている。アウトキャスト、グッディ・モブ他アトランタを拠点にしたラッパーは商業的に成功し、ニューオーリンズのラッパーでレーベルオーナーのマスター・Pは、アーティスト性よりも商業的なアピールにより焦点をしぼった「バウンス」サウンドで人気を得た。 マスター・P率いるノー・リミット・レーベルはミスティカル、シルク・ザ・ショッカーを売り出し、今や西海岸の大物であるスヌープ・ドッグの本拠地となった。ホット・ボーイズを擁するキャッシュ・マネーレーベルと競った。この争いに加わったのは、トリック・ダディを擁するマイミのスリップン・スライドレーベルであった。これらのレーベルはダーティ・サウスと名付けられたひとつのブームとなりこの10年で急成長した。CDのジャケットイメージは画像処理ソフトで大きく加工され、ライナーノーツは通常すべて関連商品の広告というスタイルだった。 アトランタ以外でも、リル・ジョン&ザ・イーストサイド・ボーイズ、8ボール&MJG、ヤングブラッズ、スリー・6・マフィアなど彼らに続く、いわゆるクランク系のグループが多く輩出されている。 2000年代に入ると、テキサス州ヒューストンから、リル・フリップ、スリム・サグ、マイク・ジョーンズ、カミリオネア、ポール・ウォールなど若手の実力派ラッパーが登場し、テキサス州出身でミズーリ州セントルイス育ちのネリーのデビューアルバム『カントリー・グラマー』が注目された。
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