千代分館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 05:03 UTC 版)
千代分館は、飯田市千代932番地5の千代公民館1階にある。その起源は1894年(明治27年)創立の千代文庫であり、中央図書館よりも歴史がある。開館日時は、水曜日の15時から17時まで(第1・3水曜日は10時30分から正午までも開館)、土曜日の10時から17時までである。2017年(平成29年)度の利用登録者数は174人、貸出冊数は6,469冊である(千栄分室含む)。ISILはJP-1001664。 千代文庫は1894年(明治27年)に千代小学校職員と青年会有志が協力して千代小学校内に設立した。1907年(明治40年)時点で1,214冊を所蔵する、下伊那郡では飯田文庫と並ぶ大きな図書館であった。しかし当時の文庫は村民の間で不人気な「お荷物施設」と見なされていた。その後、1913年(大正2年)1月30日に文庫の管理運営が千代青年会に委託された。千代青年会は官製団体から1919年(大正8年)に自主化を果たし、図書購入予算を従来の10倍となる126円に増やして、役員が飯田町に出かけて図書を買いに行くようになった。更に月1回読書会を開催して社会問題の学習に乗り出し、千代村は後に下伊那郡の青年運動の中心的な村となる。この頃の千代文庫は青年会員のみ利用できたが、1923年(大正12年)には処女会員も利用できるようにした。そして翌1924年(大正13年)、青年会の運動が実を結んで村立図書館に移行、公費で運営されることになり、村民全体に開放された。 村立移管当初、図書館管理委員は15人おり、うち5人が青年会員、4人が処女会員と青年層が多数派を形成していた。しかし千代村当局は1926年(大正15年/昭和元年)に突如図書館細則を変更して管理委員から青年会員を減らし、青年の購入図書選択権を奪った。飯田図書館でも同じく青年が購入図書を自由に選べなくなっており、下伊那郡の各町村の青年会では、千代・飯田を反面教師として購入図書選択権の維持を図ろうとした。1937年(昭和12年)7月9日、千代村出身で大倉工業の重役を務めていた島岡亮太郎の全額寄付(建築費は4,590円)により、独立した図書館を得て「村立千代図書館」が開館した。島岡は図書の寄贈も行い、島岡の寄贈書だけで優に図書館1館分に相当したという。この頃の館長は村長が兼任し、司書は小学校職員が務めた。 独立館を得た後、二宮報徳文庫・児童文庫・忠勇文庫を特設し、1939年(昭和14年)2月11日には優良図書館として長野県知事から表彰を受けた。1948年(昭和23年)4月1日より千代図書館は公民館の傘下に置かれ、1964年(昭和39年)3月30日に千代村が飯田市と合併したことにより、市立飯田図書館千代分館となる。1977年(昭和52年)6月19日、千代小学校体育館を建設するために図書館は取り壊され、同校の一角を仮館として移転した。1980年(昭和55年)4月には基幹集落センターに移転し、2014年(平成26年)7月20日に千代公民館が新築移転したことに伴い、同館内へ移転した。千代公民館には、千代図書館の建設費を負担し、多くの寄贈を行った島岡亮太郎の胸像が建立されている。
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