医療と公衆衛生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/04 08:41 UTC 版)
1901年、台湾でペストが大流行し死者も3,000人以上となった。台北避病院院長の本田祐太郎もペストにより殉職している(p191)。児玉源太郎に抜擢され、時の民政長官だった後藤新平は旧知の高木に来台とペスト撲滅への協力を依頼した。1902年3月31日、高木は台湾総督府医学校(その後台北帝国大学医学部を経て、戦後の国立台湾大学医学部)付属の台湾総督府立医院(中国語版)(戦後の台湾大学医学院付設医院(中国語版)、通称:台大医院)の医長および院長に就任。その他、医学校校長と同校教授、総督府技師や台北医院院長、台湾総督府民政部警察本署で衛生課長兼臨時防疫課長、赤十字社台湾支部の嘱託副支部長、台湾地方病・伝染病調査会委員、台北と基隆での都市計画委員なども兼任した(pp192-193)。1905年、台東病院長を2ヶ月あまり兼任(p177)。 高木はペスト撲滅のために衛生警察による監視を強化した。これは駐台日本軍兵士がペストの影響を受けることと、日本政府として日本籍軍人の健康を保証することが駐留の根幹だったことによる。台湾総督による陸軍省への報告では、欧州列強の植民政策は、旧市街を撤去し新市街として再建、あるいは兵站を市街地から離れた場所に設置し、そこを衛生的に隔離された区域とするものだった。 1910年にはペストによる死者は18人まで減った(p67)。 台湾領有後初期のペストによる患者数と死者数(年別)年189618971898189919001901190219031904190519061907190819091910患者数 258 730 1,233 2,637 1,079 4,499 2,310 886 4,500 2,398 3,272 2,592 1,270 1,026 19 死亡数 157 566 882 1,995 809 3,673 1,855 709 3,374 2,100 2,609 2,241 1,059 848 18 1913年12月、九州帝国大学宮入慶之助の斡旋で論文を提出、博士号を取得した(pp178-179)(東大では青山胤通や緒方正規らがこの論文での学位取得に太鼓判を推していたが、高木が謙遜しすぎたために青山は逆に不快感を抱いたことから東大からの学位申請とはならなかった。申請書には本人の捺印が必要だったが、友人に説得されようやくこれに応じた(pp178-179)。)。 1915年に後任の堀内次雄がやってきたことで、校長の職務を離れて研究所の業務に専念するようになった(p179)。その後、医学院の学生らは高木の校長就任15周年を記念して胸像彫刻を製作することを決めたが、高木は先代校長の山口の像が無いことを以って断固拒絶していた。しかし結局は申し出を受け入れ、長野県出身の彫刻家北村四海による胸像が置かれることになった(p69)。 高木は学生の品格教育を重んじ、人種主義を排していた。学生には母語の使用を禁じたが台湾文化を尊重し、卒業生にも気にかけ、彼らを喜ばせた(p24)。高木の教育方針は劉榮春(中国語版)などの台湾の医師を志望する学生に影響を与えた。
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