北海道開道百周年記念式典
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1968年(昭和43年)開催予定の北海道開道百周年記念式典を迎えて、北海道民を代表として皇室に献上する作品の一つに、木内のユーカラ織が選ばれた。木内は光栄に思いつつも、これは順序が違うのではないかと思った。北海道にはアットゥシ(アイヌの織物)に代表されるアイヌたちの何千年という歴史の伝統文化がある一方で、自分は織り始めて間もない成り上がりに過ぎず、まずアイヌの人たちの中から選ばれるのが筋ではないかと考えたのである。 旭川にはアイヌの古老で、重要無形文化財の杉村キナラブックがおり、サラニップ(肩から下げる袋)を編んでいた。木内は道庁の担当者に、「杉村さんと2人でお願いできないでしょうか。どうしても1人であれば杉村さんにして下さい。私にはこれからまだ機会もあると思いますので」と依頼した。宮内庁では、一度決めた指名を取り消すことも、2人に増やすことも前例がないとのことだった。しかし当時の北海道知事である町村金五の尽力もあり、最終的には2人の献上が認められた。杉村は毎朝沐浴して制作に入ったといい、木内も塩で清めて織機に向かった。 木内は、植物学者でもある昭和天皇には、春を告げる花としてミズバショウを、皇后は絵を描くことから、絵画的な題材として流氷を織ることを考えた。ミズバショウの学術的な裏打ちを求めて、日本の植物学の権威として、北海道大学の農学部教授の舘脇操のもとを訪れた。しかし舘脇は木内に、無関係な植物の話を繰り返すばかりで、木内が「ミズバショウは?」と言おうものなら、すぐ「自分からそんなこと言いだしたらいかん」と激怒した。そんな日々が半年ほど続いた後、舘脇の態度が変わった。舘脇の方から「おはよう」と声をかけ、木内が織り始めていた作品も見るようになった。木内が仕上げに多忙で舘脇のもとへ行けないと、舘脇から「どうなったか」と電話をかけたり、旭川まで訪れることもあった。後に舘脇は「花にも命がある。花と向き合って、お話ができるようになりなさいと語っており、木内は、七転八倒して織機と向かい合っていたことを温かい目で見守っていたのだと解釈した。 また流氷については、木内は実物を目にするために、オホーツク海に足を運んだ。木内は青い海に流氷が漂う光景を想定していたが、イメージの通りの流氷に出会うことは困難で、厳寒の海に何度も出かけ、飽きずに海を眺め続けた。また実際に織るにしても、木内が想定していた、青く緑がかった流氷の色は、染めるにしても紡ぐにしても大変な作業であった。理想の色を求めるうちに、織った色は何百にも上った。その何百色という糸を持って、何度も流氷の海へ出かけて、実際の色と見比べ続けた。献上の年である1968年がやってきて焦り始めた折に、流氷を20年間描き続けている紋別の画家・村瀬真治の個展を、新聞記事で知った。長く流氷を描き続ける画家に会えば何かが分かるかもしれないと、木内は即座に連絡を取り、紋別へ向かった。 こうして舘脇操、村瀬真治の2人との出会い、2人からの助力により、木内は無事に皇室への献上作品を仕上げることができた。
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