北海道開道百周年記念式典とは? わかりやすく解説

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北海道開道百周年記念式典

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 19:56 UTC 版)

木内綾」の記事における「北海道開道百周年記念式典」の解説

1968年昭和43年開催予定の北海道開道百周年記念式典を迎えて北海道民を代表として皇室献上する作品一つに、木内ユーカラ織が選ばれた。木内光栄思いつつも、これは順序が違うのではないか思った北海道にはアットゥシアイヌ織物)に代表されるアイヌたちの何千年という歴史伝統文化がある一方で自分織り始めて間もない成り上がり過ぎず、まずアイヌの人たちの中から選ばれるのが筋ではないか考えたのである旭川にはアイヌ古老で、重要無形文化財杉村キナラブックがおり、サラニップ(肩から下げる袋)を編んでいた。木内道庁担当者に、「杉村さんと2人お願いできないでしょうか。どうしても1人であれば杉村さんにして下さい。私にはこれからまだ機会もあると思いますので」と依頼した宮内庁では、一度決めた指名取り消すことも、2人増やすことも前例がないとのことだった。しかし当時北海道知事である町村金五尽力もあり、最終的に2人献上認められた。杉村毎朝沐浴して制作入ったといい、木内も塩で清めて織機向かった木内は、植物学者でもある昭和天皇には、春を告げる花としてミズバショウを、皇后絵を描くことから、絵画的題材として流氷を織ることを考えたミズバショウ学術的な裏打ち求めて日本植物学権威として、北海道大学農学部教授舘脇操のもとを訪れた。しかし舘脇は木内に、無関係な植物の話を繰り返すばかりで、木内が「ミズバショウは?」と言おうものなら、すぐ「自分からそんなこと言いだしたらいかん」と激怒した。そんな日々半年ほど続いた後、舘脇の態度変わった。舘脇の方から「おはよう」と声をかけ、木内織り始めていた作品も見るようになった木内仕上げ多忙で舘脇のもとへ行けないと、舘脇から「どうなったか」と電話かけたり旭川まで訪れることもあった。後に舘脇は「花にも命がある。花と向き合ってお話ができるようになりなさいと語っており、木内は、七転八倒して織機向かい合っていたことを温かい目で見守っていたのだと解釈した。 また流氷については、木内実物目にするために、オホーツク海足を運んだ木内青い海流氷が漂う光景想定していたが、イメージ通り流氷出会うことは困難で、厳寒の海に何度も出かけ、飽きずに海を眺め続けた。また実際に織るにしても木内想定していた、青く緑がかった流氷の色は、染めにしても紡ぐにしても大変な作業であった理想の色を求めるうちに、織った色は何百にも上った。その何百色という糸を持って何度も流氷海へ出かけて、実際の色と見比べ続けた献上の年である1968年がやってきて焦り始めた折に、流氷20年描き続けている紋別画家村瀬真治の個展を、新聞記事知った長く流氷描き続け画家会えば何かが分かるかもしれないと、木内即座に連絡取り紋別向かった。 こうして舘脇操村瀬真治の2人との出会い2人からの助力により、木内無事に皇室への献上作品仕上げることができた。

※この「北海道開道百周年記念式典」の解説は、「木内綾」の解説の一部です。
「北海道開道百周年記念式典」を含む「木内綾」の記事については、「木内綾」の概要を参照ください。

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