北海道不動産の路線計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 15:38 UTC 版)
「日本ロッキード・モノレール」の記事における「北海道不動産の路線計画」の解説
北海道不動産は、1958年に北海道炭礦汽船社長の萩原吉太郎が設立したリゾート開発会社である。1959年初頭から栃木県日光市の霧降高原に種々のリゾート開発計画を立て、その一環として1960年4月に日光霧降(東武日光駅付近) - 霧降滝間、約4kmのモノレール路線の免許申請を行った。また第二期として霧降滝 - 霧降高原方面および東照宮間も計画していた。北海道不動産は東京に本社があり、札幌にも北海道出張所を持っていたが、この霧降高原のリゾート計画のために日光事務所を開設するほど、力を入れていた。 北海道不動産は当初、日立製作所とともに運輸省に説明を行っており、アルヴェーグ式モノレールの導入を検討していたようであるが、その後、モノレールの方式をアルヴェーグ式からロッキード式に変更している。萩原は「日光の霧降高原の観光開発で、モノレールを建設しようということになったさい、丸紅を通じてロッキードのモノレールを知った」と語っている。 1961年2月22日、丸紅飯田は、萩原吉太郎を会長としてロッキード式モノレールの日本法人を設立すると発表した。その声明のなかでは「国内需要としてはさしあたり北炭系列下の北海道不動産が計画している栃木県日光 - 霧降滝間4kmのモノレール建設を予定する」とされている。同日、萩原は報道陣に対し「モノレール建設は許可があり次第、着手する。これとともにスキー、スケート場、ホテル、ロッジ、ケーブルカー、ロープウェーを建設する。資金は第一期15億円、第二期34億円で、北拓、三井信託、足利銀行を幹事銀行とするシンジケート団から融資を受ける」と述べた。 同年3月、北海道不動産のモノレール路線計画は運輸審議会に諮問された。 同年5月、萩原吉太郎は日本ロッキード・モノレールの設立に参加し、正式に会長に就任した。 同年6月時点では、北海道不動産は、モノレールの免許が間もなく得られ、1963年夏ごろまでに開業予定であるとしていた。また、霧降高原の開発計画として、実測300万坪の用地を買収し、霧降滝周辺にレストハウス、展望台、駐車場を整備すること、丁字滝西方にセントラルロッジとケビンを整備すること、さらに国際観光ホテル、ゴルフ場、スキー場、スケート場、サマーハウス、別荘地区、植物園、養魚場、自然動物園を建設すること、および七滝展望台へのロープウェーを建設することを謳っていた(この時はケーブルカーについては言及されていない)。 しかしその後、栃木県、日光市、東武鉄道、北海道不動産の四者による協議が行われ、霧降高原のリゾート計画は規模が縮小された。 1962年5月、北海道不動産はモノレール路線の申請を取り下げた。同年10月、霧降の滝を見下ろす立地に北海道不動産によって回転展望レストラン「日光霧降スカイリング」が開業したが、「今後の計画」はスキー場、キャンプ場、別荘地、観光牧場となっており、モノレールの計画は削除されている。
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