北出羽の大名にとは? わかりやすく解説

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北出羽の大名に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 07:55 UTC 版)

秋田実季」の記事における「北出羽の大名に」の解説

天正18年1590年)、豊臣秀吉より小田原征伐への参陣を命じられ、これに従った続いて同年奥州仕置がなされ、天正19年1591年)には太閤検地おこなわれた湊合戦秀吉によって惣無事令違反と見なされて一時問題となったものの、実季の中央工作もあって出羽国内の所領78,500石余のうち約5万2,440石の安堵認められた。ただし、実高15万石およんだといわれる旧領3分の1にあたる約26,000石は太閤蔵入地として没収され、実季はその代官任じられた。 ここで重要なのは、永年にわたる係争の地であった比内(後の北秋田郡)の領有確定されたことで、比内地盤とする浅利氏・嘉成氏の領主権否定された。そして秋田南秋田郡)・檜山比内いわゆる秋田下三郡に加え豊島郡河辺郡)を有する大名として地歩固められた。なお太閤蔵入地設定理由としては、蔵米輸送ないし地払いによる運上収益よりもむしろ秋田杉運上のためと考えられている。秋田杉運上は、文禄2年1593年)の前田利家建造安宅船の船材運上はじまり、淀舟材木橋板経て慶長2年1597年以降伏見作事用板(太閤板)の運上として固定した。また領内土崎湊現在の秋田港)、能代湊(能代港)の2港を整備して領国経済確立させ、両港および越前国敦賀湊(現在福井県敦賀市)などでは米のほか木材販売している。 奥州仕置後、実季はあらため平城として、雄物川河口土崎湊に堀をともなう湊城築いて本拠をここに移し秋田城介号して秋田氏名乗った。また大館城大館市)・脇本城男鹿市)・馬場目城(五城目町)などの要地功臣一族配して比較安定した領国支配築いた豊臣秀次総大将とする天正19年1591年)の九戸政実の乱における討伐軍、文禄元年1592年)よりはじまる朝鮮出兵にも参陣している。文禄2年1593年)の文禄の役での渡海割当は、『浅野家文書によれば134であった文禄年間にはまた、自領の一部について検地行った形跡がある。文禄3年1594年成立とみられる秋田城之助殿分限帳』では秋田領は98,500石、蔵入地29,000石余と算定された。 文禄3年から文禄4年1594年)にかけては、比内浅利氏との間に小競り合い生じている。史料には比内南西部がこの時「秋田よりなてきり」「秋田より放火」との記録が残る。浅利氏家老であった片山弥伝(比内中野)、浅利七兵衛十二所)、浅利内膳八木橋)らは、これを機に直接、実季に従うこととなった慶長4年1599年)から翌年にかけては本拠湊城大規模な改築行なっている。そこには、多数大工鍛冶大鋸引・葺土・壁塗り参加したことが記録残されている。

※この「北出羽の大名に」の解説は、「秋田実季」の解説の一部です。
「北出羽の大名に」を含む「秋田実季」の記事については、「秋田実季」の概要を参照ください。

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