北円堂の概要
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北円堂(ほくえんどう)は、中金堂の西側に建てられた八角円堂である。後に南円堂が建てられてからは北円堂と呼ばれるようになった。『興福寺流記』に引く「宝字記」「延暦記」によれば、藤原不比等の菩提のため、元明太上天皇と元正天皇によって、不比等の一周忌にあたる養老5年(721年)に、長屋王に命じて建立させたものである。 北円堂は永承元年(1046年)の大火には焼け残ったが、その3年後の永承4年(1049年)に焼失。再建されるが、治承4年(1180年)の平重衡の兵火で焼失。現在の建物は承元4年(1210年)頃の再建である。嘉暦2年(1327年)と享保2年(1717年)の大火には焼け残り、三重塔とともに興福寺でもっとも古い現存建物である。 「延暦記」によれば、当初の安置仏は弥勒仏像、両脇侍像、羅漢2体、四天王像の9体であった。治承の兵火により、これら当初の安置仏は焼失しているが、弥勒仏を中心とする9体から成る構成はその後も継承されている。うち羅漢2体は、現在は無著・世親像と呼ばれている。 現存する北円堂は、堂内中央部を8本の柱で囲まれた須弥壇とし、中央に本尊弥勒仏坐像、その左右に脇侍の法苑林菩薩坐像と大妙相菩薩坐像を安置する。本尊の後方左右には無著・世親立像が立ち、須弥壇の隅には四天王立像4体が各々外側を向いて立つ。弥勒仏、無著、世親の3体は鎌倉復興期、運慶一門の作。両脇侍像は室町時代の作である。四天王像は平安時代初期の木心乾漆造で、大安寺から移されたものである。 『猪熊関白記』の記載から、北円堂の諸仏(9体)は、治承の兵火後、運慶を中心とする11名の仏師と5人の供奉仏師によって、承元2年(1208年)から造立に着手されたことがわかる。昭和9年(1934年)の修理時には弥勒仏の台座内部から各像の担当仏師を記した墨書が発見された。この墨書によれば、弥勒仏は源慶と□慶(静慶か)、法苑林菩薩は運覚、大妙相菩薩は判読不能(□運)、四天王は持国天、増長天、広目天、多聞天の順に湛慶、康運、康弁、康勝が担当したことがわかる。無著像と世親像の担当仏師の部分は判読困難だが、無著像については運助、世親像については運賀または運勝と推定されている。源慶、静慶、運覚は運慶の弟子であり、湛慶、康運、康弁、康勝、運賀、運助はそれぞれ運慶の長男、二男、三男、四男、五男、六男である。これら9体の仏像は、運慶が全体の制作を統括し、工房の仏師を率いて制作したものである。これら9体の諸仏のうち運慶一門の作品が現存するのは、前述のとおり弥勒仏、無著、世親の3体のみである。四天王像については、現在南円堂に安置される一具を本来の北円堂像とみなす説もあるが、確証はない。
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