創業と乱脈経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 05:02 UTC 版)
東京木挽町で鉄屑屋「小宮山商店」を営む小宮山英蔵が、それで得た財を元手に殖産会社の東北林業を買収して、1949年6月1日に日本殖産を設立、さらに大日殖産を吸収合併して社名を平和貯蓄殖産無尽に変更。日掛け金融を始める。1951年の相互銀行法(法律第199号)の施行によって相互銀行に転換、平和相互銀行となる。 相銀転換後しばらくして、夜9時までの窓口営業を開始(後に行政指導により夜7時までの営業に短縮)した。これは当時、同行の顧客の多くが水商売で夜遅くまで営業していたことから、大蔵省に直談判して窓口の夜間営業を認めさせたと謂われている。こうした夜間までの窓口営業に加え、首都圏の駅前から住宅地まで店舗網の整備を進めたほか、ATMのオンライン提携がない時代に都市銀行など10行と提携し、各行でオフラインで入出金ができるキャッシュカード(ヘイワバンカード)を発行するなど、顧客に対する利便性の充実に努めた。これら施策が実を結び、店舗数103・資金量1兆1500億円と相銀界6位の規模にまで成長した。 その一方で、英蔵は私的な利益を追求し関連会社を次々と設立、買収した。総武流山電鉄や、後に内紛でクローズアップされることとなる西鉄ライオンズを買収した福岡野球のメインスポンサーとなる太平洋クラブ、海外での鉱山・木材・漁業などを手掛ける総武通商や総武都市開発、足立産業、馬毛島開発など、グループ企業は100社以上を数え、いわば「小宮山コンツェルン」を形成した。 ほかにも英蔵の私的な側近である正和恒産の安積正、旅友開発の作本宏芳、日誠総業の次郎丸嘉介、太陽開発の松尾秀登の"四天王"や、政治家・総会屋・右翼なども平和相銀と関係を持つようになり、平和相銀は「闇の紳士の貯金箱」というのが金融界の評価であった。
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