創業と初期の成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 23:48 UTC 版)
「アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道」の記事における「創業と初期の成長」の解説
鉄道の敷設特許はサイラス・ホリデイ(英語版)が独力で1859年1月に申請し、カンザス準州の知事によりアッチソン・アンド・トピカ鉄道会社 (Atchison and Topeka Railroad Company) としてカンザス州トピカからサンタフェまで、そしてメキシコ湾に至る鉄道を建設する目的で同年2月11日に承認された。当初の東側の終点はトピカのわずかに北東にあるアッチソン(英語版)であり、そこから名前がつけられている。カンザス準州が州に昇格した2年後の1863年5月3日に、創業者の野望をよりよく表現するアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道 (Atchison, Topeka and Santa Fe Railroad) と改称した。鉄道は1868年10月30日にトピカで起工され、西へ向かって建設を開始した。初期の建設事業の中にはカンザス川を横断する工事などがあった。最初の大陸横断鉄道が開通するまで1か月もない1869年4月26日に最初の区間が開通し、トピカとポーリン(英語版)の間を特別列車が運行された。この距離はわずか6マイル(約10 km)に過ぎなかったが、この「ワカルサ・クリーク・ピクニック・スペシャル」(Wakarusa Creek Picnic Special) と名づけられた特別列車は、ポーリンでの祝賀会場への旅客を運んだ。 建設部隊はさらに西へと建設工事を続け、1872年9月5日にドッジシティに到達した。この建設により、サンタフェ鉄道はカンザス・パシフィック鉄道(英語版)と家畜輸送を巡って競争できるようになった。建設はさらに続けられ、トピカからカンザス州とコロラド州の州境までの最後の区間を1873年12月23日に開通させた。コロラド州のプエブロには1876年3月1日に到達した。プエブロへ到達したことで、コロラドから石炭を東へ向けて輸送できるようになり、多くの新しい貨物輸送需要を獲得することになった。 カンザス州から東部コロラド州にかけての建設は技術的には単純であった。その後さらに西へ建設を進めた際に直面したような、巨大な自然の障害がなかったからである。しかし地域の人口密度があまりに低かったために、経済的にはほとんど成り立たないことになった。この問題に取り組むためにサンタフェ鉄道はこの地域に不動産事務所を設立し、1863年にアメリカ合衆国議会によって鉄道に供与された土地に対する植民を精力的に推し進めた。西部に土地の調査に行く人であれば誰に対してでも、鉄道会社は割引運賃を提供した。もしその人が結果的に土地を購入すれば、運賃は土地の代金に充当することになっていた。サンタフェ鉄道は平原を横断して鉄道を建設してきて、また収入をもたらしてくれる顧客基盤を形成し、ロッキー山脈を越える険しい地形へ次なる関心を向けた。
※この「創業と初期の成長」の解説は、「アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道」の解説の一部です。
「創業と初期の成長」を含む「アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道」の記事については、「アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道」の概要を参照ください。
- 創業と初期の成長のページへのリンク