剣道形に対する評価
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内藤高治 剣道の形は申すまでもなく、古来、各流においてその流祖のひとびとが実地の上より研究に研究をいたして、いずれもその理に適合いたしたる形でありますから、こんにちは別にあらたに形を制定する必要はないのでありますが、ご承知のごとく剣道が中等程度の学校に、正課として課せらるることにあいなりたる以上は、その程度において課すべき適度の形を制定するは当然必要のことと認めまして、武徳会本部は高等師範と協議の結果、形制定につき主査員五名を選抜いたし、全国より十八名の委員をあげて、主査員の立案したるのがすなわちこの帝国剣道形でございます。しかし、かくのごとき形ができました以上は旧来各流にあるところの形は不用と申すしだいではなく、まったく中等程度の教授に適するまでの形であります。 — 『月刊剣道日本』1999年8月号123頁、スキージャーナル 高野佐三郎 剣道の形は剣道の技術中最も基本的なるものを選みて組み立てたるものにして、之により姿勢を正確にし、眼を明かにし、技癖を去り、太刀筋を正しくし、動作を機敏軽捷にし、刺撃を正確にし、間合を知り、気位を高め、気合を練る等甚だ重要なるものなり。初めより道具を着け互角の試合を試み勝負を争ふ時は姿勢、動作を乱し気合間合を測らず刺撃も正確ならずして多く悪癖を生じ上達亦遅し。故に昔は必ず先づ形より入りて試合に到るを順序となせり。故に基本動作に習熟するに至れば適宜に形を交へて教授するを可とす。形を演ずるに当りては充分に真剣対敵の気合を込め、寸毫の油断なく、一呼吸と雖も苟もせず、剣道の法則に従ひ確実に演練すべし。形に重んずべきは単に其動作のみならず実に其精神にして、気合充実せず精神慎重を缺かば如何に軽妙に之を演ずるとも一の舞踊、体操に過ぎざるのみ。 — 高野佐三郎著『剣道』 中山博道 今日各流の存在が全く無視され、竹刀術の優劣のみが表道具となってきたのは時代の流れで致し方ないとしても、この反面、流派を絶やさぬよう護持に精進している人々があることも忘れてはならない。これ等の人の気持ちを充分考えられて、竹刀側も何とかこれに近づくように努める必要がある。少なくとも錬・教・範士は年数にある程度の苦心をした者であるから、全くの形なしと言われるようであってはどう考えてもいけない。竹刀競技絶対の今日にあって、かくの如く流派のことのみをいうのは誤りであるのかも知れないが、武道なり剣道なりの名称がある以上、むしろ知らないほうが誤りというべきではあるまいか。現在行われている大衆形を剣道形として唯一無二に採用し、三日間位の練習の付け焼刃で受験の手段に使用、その後はわれ関せずとするのが大部分の現状では、まことに手のほどこしようがない。 — 堂本昭彦『中山博道剣道口述集』、スキージャーナル 好村兼一 『形』という言葉から殆どの読者が連想するのは『日本剣道形』ではないだろうか。もしそうだとすれば、実はそこも私が問題視する点なのである。それ程までに『日本剣道形』が聖典視されているところに、剣道に対する考えが狭くなって行く大きな原因の一つがあると思われる。なるほど『日本剣道形』の前身は明治44年剣道が中学校の正科として取り入れられたための必要性から、時の大家が集まって作り上げた素晴らしいものに間違いはなかろうが、それだけを習って『形』の全てはそれで良し、としているところに問題がある。(中略)『日本剣道形』を軽視するつもりは毛頭ないが、個人的な印象では、それは古流の奥深い魅力に対等するものではないような気がする。ただ『日本剣道形』が古流への導入部門としての大きな役割を果たし、古流と竹刀剣道をつなぐ位置にあることは確かだろう。 — 『月刊剣道日本』1998年2月号40頁
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