初代大韓帝国皇帝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 00:54 UTC 版)
「大韓国国制(朝鮮語版)」では、第2条で「大韓帝国の政治は万世不変の専制政治」、第3条で「大韓国大皇帝は無限の君権を享有」、第4条で「君権を害する臣民は、既に行ったかいまだ行っていないかを問わず、臣民の道理を失った者と見なす」として王権をさらに拡大した。朝鮮日報は「近代を拒否し、古代へ回帰した」と表現している。皇帝になってからも高宗の周辺は安定せず、1898年7月には皇帝譲位計画が、9月には金鴻陸による毒茶事件(高宗・皇太子暗殺未遂事件)が起こっている。また、独立協会を中心とした独立派に対する守旧派の妨害によって政府内は暴力的政争の状態になり、ついには独立協会は解散、議会政治への道も閉ざされてしまう。高宗は光武改革という近代化政策を推し進めるが、財源の一元化の失敗、脆弱な財政基盤を強化するための増税が民衆反乱を招き、改革は頓挫してしまう。 東学の残党も活発な運動を続け、1899年に英学の反乱を起こしている。 一方、満州と朝鮮を挟んで、ロシアと日本の帝国主義国家間対立は深刻化し、1904年 - 1905年に日露戦争が勃発した。朝鮮日報によると今度はフランス公館へと逃亡しようとした。 地政学的な国策から対朝鮮政策を強化したい日本は、戦局が優位に進む中1905年4月に韓国保護権確立を閣議決定、7月29日には、アメリカとの間で、桂・タフト協定を結び、アメリカのフィリピンでの権益を認める代わりに朝鮮での権益を認めさせ、8月には第2回日英同盟を締結し、ロシアの南下に対抗する拠点として朝鮮支配の確約を得た。また日露戦争中に高宗はロシアに事大するための密使を派遣していたが、日本は高宗の密使を発見し、高宗の条約違反という弱みを握ることとなった。 列強の支持を取り付けた日本は、日露戦争勝利後、11月17日第二次日韓協約(乙巳保護条約)を締結し、韓国の外交権を剥奪し、日本の保護国とした。承政院日記には、高宗が保護条約反対派の大臣を宥める記述が残っている。 一方、これらの動きの中で高宗は、1907年6月に行われる第2回万国平和会議に秘密裏に特使を派遣し、ハーグ密使事件を起こすが、既に日本の権益を認めていた列強からは相手にされなかった。この事件により、日本の意を受けた李完用などの勢力は、皇帝退位へと動き、7月20日皇太子李坧への譲位に追い込まれ太皇帝となる。
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