初のリーグ・ドゥ降格後
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「FCナント」の記事における「初のリーグ・ドゥ降格後」の解説
2004年、ダッソーグループがソクプレスからクラブを買い取って所有者となったが、クラブの運営には介入せずに経営陣を離れ、クラブ所有を望んでいたわけではなかったこと、望みはクラブ運営によって損失を出さないことだということが明らかとなった。2003-04シーズンのクープ・ドゥ・ラ・リーグ・FCソショー戦では、キーパーのミカエル・ランドローがPK戦でPKを失敗し、同大会敗退とUEFAカップ出場権獲得失敗が決まった。2004-05シーズンはリーグ・アン改名後最悪のシーズンとなり、最終節を前にして降格圏内の19位だったが、最終節のFCメス戦に勝利して17位に浮上し、かろうじてリーグ・ドゥ降格を逃れた。しかし、シーズン中にクラブは前例のない危機に瀕した。キャプテンのランドローが選手たちの反乱を先導し、ロイク・アミッセ監督の解任を要求すると、サポーターも選手たちの反乱に賛同し、ソショー戦ではジュリポン会長を刺激するために、150もの座席が引きはがされて4人の売り子が負傷した。2005-06シーズン開幕前、ダッソー一派は取締役のRobert BudzynskiとKléber Bobin、選手のランドローと生え抜きのフレデリック・ダ・ロシャにクラブを離れるように要求した。セルジュ・ル・ディゼ監督は就任後半年しか経過していなかったが、同時期にはヴァヒド・ハリルホジッチに監督就任を打診した。2005年6月28日、ダッソー一派の臨時会議後にジュリポン会長が退任してルディ・ルシヨンに代わった。2006年9月20日にはル・ディゼ監督が退任してジェルジュ・イオ監督が就任したが、イオ監督はわずか5ヶ月で監督の座を追われ、2007年2月12日にはミシェル・デル・ザカリアンとエンドラムが共同監督に就任した。5月9日のFCジロンダン・ボルドー戦(1-0)には勝利したが、他会場の結果によりリーグ・ドゥ(2部)降格が決定し、44シーズン連続トップリーグ在籍の記録が途切れた。このシーズンには何人ものアシスタントコーチが就任しては去り、キーパーのファビアン・バルテズも同様だった。シーズン最後のホームゲームとなったトゥールーズFC戦では、ふがいない成績に怒った多数の観客が86分にピッチに乱入した。 2007年には移籍市場で忙しい夏を過ごし、新オーナーが就任。2007-08シーズンには、1963年以来となるリーグ・ドゥの試合に臨んだ。2008年にはクラブ名称とエンブレムの変更が行なわれた。クラブ名称から「アトランティック」の文字が取り去られ、1992年までの名称であるFCナントに戻った。2008年の序盤にはクレルモン・フット戦とル・アーヴルAC戦に敗れ、クープ・ドゥ・フランスではスダンに敗れて6シーズンぶりの早期敗退となった。リーグ戦では、スタッド・ブレスト戦、SCバスティア戦、スダン戦の3試合では新加入のフィリップ・ドルデヴィッチが計4得点を挙げて3連勝を飾った。2008年4月25日、モンペリエHSC戦に1-1で引き分けてリーグ・アン復帰を決め、最終的にル・アーヴルに次ぐ2位となった。しかし、2008-09シーズンは19位に終わってリーグ・ドゥ降格となった。この時期のナントは、37,000人収容のスタジアムに10,000人の観客を集めるのにも苦労した。2012年1月にはアル・ナスルSCからイスマエル・バングラを獲得したが、契約の際に規約違反を犯したとして、2013年1月に国際サッカー連盟(FIFA)から1年間の補強禁止処分を受けた。
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