刈和野・椿台方面の戦いとは? わかりやすく解説

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刈和野・椿台方面の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 03:02 UTC 版)

秋田戦争」の記事における「刈和野・椿台方面の戦い」の解説

8月27日庄内二番大隊大曲に転陣して角館の戦いに出かけた一番大隊留守預かった9月2日大曲帰還した一番大隊から角館の戦い戦況聞き軍議開いて作戦練り直した今度二番大隊中心になり、海道口の四番大隊協力して雄物川流域福部付近強行渡河する作戦になった四番大隊久保田城目指し北上し二番大隊神宮寺鎮撫本営攻撃し、一番大隊大曲神宮寺角館鎮撫軍をひきつけるという作戦であった9月7日午前2時、二番大隊大曲出発して行軍し9月8日雄物川渡河した。すでに四番大隊渡河して、久保田兵と川口守備していた福岡兵と交戦していた。新政府軍敗走して、庄内軍は北東転進した詳細は「雄物川渡河作戦」を参照 内陸進んだ庄内一番大隊二番大隊と、由利から高尾山越えて秋田入った四番大隊が、こうして連携を取るようになった9月9日には椿台秋田市雄和)の目前達した詳細は「刈和野の戦い」を参照 庄内進撃急報接した鎮撫軍は、久保田藩支藩である久保田新田藩の陣屋建設される予定であった椿台とその付近丘陵に、兵力集中して強固な陣地構築した。ここは久保田城まで3里(約12km)の地点であり、椿台突破されると久保田城直接戦火晒されることは必至状況であった9月10日より、庄内軍は三手分かれて椿台総攻撃入った糠塚山を守備していた佐土原兵・久保田兵・本荘兵・福岡兵と交戦し糠塚山を占領して安養寺から椿台椿川方面攻め込んだ佐賀藩兵による援軍新式銃の支給受けていた鎮撫軍の守備これまでになく堅く9月11日鎮撫軍が反撃開始した激戦の後も決着がつかず、9月12日庄内三番大隊長浜来襲して激戦繰り広げられた。新政府軍善戦により、庄内軍が雄物川渡り敗走する詳細は「椿台の大会戦」を参照 この頃南方情勢として、8月28日米沢藩新政府軍降伏9月12日米沢藩支持により上山藩降伏し9月13日仙北の兵も上山帰還9月9日ごろから同盟軍諸隊仙台集結して城内では連日激論交わされていた。9月12日米沢藩から仙台到着した降伏勧告使者説得されて、9月13日には仙台藩新政府恭順することになったこのため奥羽越列藩同盟軍は総崩れになった旧幕府艦隊率いた榎本武揚新撰組副長土方歳三は、仙台藩見切り付けて函館渡った。この状況にあって9月14日庄内軍は軍議開き庄内撤退して自領防衛徹することを決めた9月15日刈和野攻撃して奪回戦を行った一番隊背後からの奇襲により、16日午後2時ころ新政府軍潰走始めた一番隊引き上げ助けるために、撤退戦行った盛り返した新政府軍攻勢をかわしながら引き返した9月17日鶴岡城降伏の藩議が決定された。23日庄内軍の全軍帰還完了確認した詳細は「刈和野奪回戦」を参照

※この「刈和野・椿台方面の戦い」の解説は、「秋田戦争」の解説の一部です。
「刈和野・椿台方面の戦い」を含む「秋田戦争」の記事については、「秋田戦争」の概要を参照ください。

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