出雲大神の祟りとは? わかりやすく解説

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出雲大神の祟り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 14:30 UTC 版)

誉津別命」の記事における「出雲大神の祟り」の解説

津別皇子は父天皇に大変寵愛されたが、長じてひげが胸先達して言葉発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという。 『日本書紀』によると皇子ある日(くぐい、今の白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初め言葉発した天皇喜び、その捕まえることを命じる。天湯河板挙鳥取造の祖)が出雲一書但馬)で捕まえて献上し遊び相手にすると、誉津別命言葉発するようになった。ここに鳥取部鳥飼部・誉津部を設けたとある。 『古事記』では、誉津別皇子ついてより詳しい伝承述べられている。天皇尾張の国二股分かれた二股船作り、それを運んできて、市師池・軽池に浮かべて皇子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て捕らえるように命じた紀伊播磨因幡丹波但馬近江美濃尾張信濃・越を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子得てもまだ物言わなかった。ある晩、天皇夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子しゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇太占夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった天皇皇子曙立王・菟上王とともに出雲(現:島根県東部)に遣わして大神を拝させた。出雲から帰る際、肥川に渡し仮宮造営し滞在していると、そこに出雲国造祖先である岐比佐都美青葉の木を飾り立てて川下立て食事献上しようとしたその時皇子が「この川下青葉の山のように見えるものは、山の様で山ではない。もしかすると、出雲の石硐の曽宮に坐す葦原色許男大神仕え奉る祭場ではないだろうか」と問うた。皇子話せるようになったことを御供の王たちは喜び皇子檳榔長穂宮に移すと、早馬走らせて天皇報告した天皇はこれを喜び、菟上王出雲返して大神の宮を造らせた。また鳥取部甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を設けたという。 『釈日本紀』に引く『尾張国風土記逸文では阿麻乃彌加都比女の祟りとする。それによると誉津別皇子7歳になっても話すことができなかったが、皇后夢に多具の国の神・阿麻乃彌加都比売が現れて、「自分にはまだ祝(はふり)がいないので、自分祭祀してくれる者を与えてくれたなら、皇子話せるようになり、寿命延びであろうと言った。そこで天皇日置部らの祖・建岡君にこの神がどこにいるかを占わせた。建岡君は美濃国花鹿山に行き折って鬘(髪飾り)を作りウケイして「この鬘の落ちたところに神はいらっしゃるだろう」と言った。すると鬘は空を飛んで尾張国丹羽郡落ちたので、建岡君は同地に社を建て、また同地も鬘が訛って阿豆良(あづら)の里と呼ばれるようになったとある。多具の国とは、出雲国多久川流域とされ、また阿麻乃彌加都比売は『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷にみえる甕津日女もしくは楯縫郡神名樋山の項の天御日女)と同神とされる。天御日女葦原色許男大神の子である阿遅鉏高日子根神の妻とされ、阿遅鉏高日子根神『出雲国風土記』において、誉津別皇子同じく大人になっても子供のように泣き止まなかったとする伝承掲載されている。

※この「出雲大神の祟り」の解説は、「誉津別命」の解説の一部です。
「出雲大神の祟り」を含む「誉津別命」の記事については、「誉津別命」の概要を参照ください。

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