冷戦期における米ソ間の建艦競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:28 UTC 版)
「建艦競争」の記事における「冷戦期における米ソ間の建艦競争」の解説
第二次世界大戦の戦勝国として圧倒的な優位を確立したアメリカ海軍に対して、しばらく後に新たな挑戦者が現れた。同じく戦勝国となり、東西冷戦の一翼を担ったソビエト連邦である。 当初彼らが目指したのは、ヨシフ・スターリンの指導下、比較的防衛的な海軍であった。彼の個人的な嗜好も反映されたとされる整備構想は、大型巡洋艦やドイツの先進的Uボートに影響された高速潜水艦等、近海での行動を想定された艦艇群が主だった。アメリカ海軍の強大な空母機動部隊に正面から対抗しても勝ち目がないことは、彼ら自身がよくわかっていたのである。 しかしミサイル・ギャップ論に端を発する米ソの核開発競争は、劣勢側のソ連が起死回生を目指して実施したキューバへの基地建設によって重大な局面を迎えた。アメリカの内懐に突如出現した社会主義勢力はまさに獅子身中の虫であり、そこに強大な核戦力が配備されることはアメリカにとって絶対に許容できない事態であった。 キューバ危機から解決への推移は同記事に詳細を譲るとして、その過程で行われたアメリカ海軍による海上封鎖は、ソ連首脳部に重大な衝撃を与えた。ソ連は友邦を救う手立てを何一つ実行できず、圧倒的な海軍力の格差を埋める必要性を改めて認識したのである。以後ソ連海軍は大型水上艦や航空母艦を含めた大海軍建設を本格的に推進していく。 対するアメリカは、相対的な戦力低下を自覚していた。大量に保有していた第二次大戦期の諸艦はさすがに更新期を迎えており、従前の保有量を維持することは不可能だったためである。成長を続けるソ連海軍に対して戦力が低下し続けるアメリカ海軍という構図は将来的な危機感を抱かせるには十分であり、再び海軍力優位を確立し直す必要性が認められた。 1981年、ロナルド・レーガン大統領の下、アメリカは「600隻艦隊構想」を提唱した。1981年時点で475隻まで低下していた海軍力を600隻まで増強しようというものである。原子力空母を含む超大型空母15隻、モスボールされていたアイオワ級戦艦4隻の復活、100隻に達する原子力潜水艦群などの保有が謳われ、再びアメリカは建艦に舵を切った。対抗するソ連もモスクワ級ヘリコプター巡洋艦とキエフ級航空母艦を経ていよいよ大型空母が洋上に姿を見せようとしており、両国の建艦競争は最高潮を迎えつつあった。 結末は1991年唐突に訪れた。ついにソ連海軍最初の本格的航空母艦アドミラル・クズネツォフが進水した直後、冷戦が終結しソ連は崩壊してしまったのである。敵を失ったアメリカ海軍も、その直前に達成していた600隻艦隊はすぐにそれを割り込み、2011年現在では283隻体制(当時海軍は313隻を希望していた)にまで縮小してしまっている。
※この「冷戦期における米ソ間の建艦競争」の解説は、「建艦競争」の解説の一部です。
「冷戦期における米ソ間の建艦競争」を含む「建艦競争」の記事については、「建艦競争」の概要を参照ください。
- 冷戦期における米ソ間の建艦競争のページへのリンク