再作出への取り組みと天然記念物指定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 22:27 UTC 版)
「秋田犬」の記事における「再作出への取り組みと天然記念物指定」の解説
大正時代に入る頃から、学識者や関係者によって、「秋田犬を保存すべし」という世論が高まりを見せた。保存運動の中心となったのは、雑化を危惧した当時の大館町長(泉茂家)らである。このような動きは秋田犬に限ったことではなく、明治期の舶来文物偏重や交通の自由化等による洋犬等との雑化と、その反動としての保存運動は、全国の日本犬に関する共通の動きだった。 このような流れの中、1919年(大正8年)には、種族保護に関する法律、すなわち史蹟名勝天然紀念物保存法が発布された。同法の制定に向けて中心となって動いた渡瀬庄三郎は、当時の「日本犬保守運動」の中心人物でもある。渡瀬らは翌1920年(大正9年)、内務省の視察団として、秋田犬の調査のために大館町(現・大館市)を訪れたが、この時はタイプの雑化が甚だしく、天然記念物への指定には至らなかった。渡瀬は1922年(大正11年)の動物学会において 「日本犬の起源に就いて」と題する発表を行ったが、一番の議論の焦点は秋田犬であったという。 これ以後、同好者による秋田犬の繁殖改良・再作出への取り組みはいっそう勢いを増し、大舘町長は自身が所有していた純血の秋田犬雄1匹と、周辺の純血の雌犬4匹を交配させ、さらにかつて町長が山形県知事に贈った雄犬の元にも雌犬を連れて行き交配させるなどした。 1927年(昭和2年)5月には、町長らによって「秋田犬保存会」が設立された。日本犬保存会が東京に 設立されたのは、これより1年遅い1928年(昭和3年)6月のことである。 保存会の設立以降、秋田犬復興への取り組みはいよいよ本格的になり、1931年(昭和6年)春の、鏑木外岐雄らによる再調査を経て、同年7月31日、9頭の優秀犬が、「秋田犬(あきたいぬ)」として国の天然記念物としての指定を受けるに至った。これは日本犬としては初の天然記念物指定である。 この1年後の1932年(昭和7年)10月4日、帰らぬ主人・上野英三郎(東京帝国大学教授)を渋谷駅で待ち続ける秋田犬「忠犬ハチ公」が、日本犬保存会初代会長である斎藤弘吉の寄稿によって「いとしや老犬物語」として『朝日新聞』に報道され、注目を集めた。2年後の1934年(昭和9年)4月には、東京渋谷の駅頭でハチ公像が除幕されている。ハチ公は翌1935年(昭和10年)3月8日に11歳4か月で死亡したが、主人に忠実な秋田犬は、忠犬ハチ公の名とともに、ますます世に知られることになった。この1934年(昭和9年)頃から、秋田犬保存会は犬籍登録を実施。1938年(昭和13年)には「秋田犬標準」も制定され、展覧会も開催されるようになったが、これは太平洋戦争の勃発によって、一時中断されることとなった。
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