内裏乱入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 00:56 UTC 版)
12月、尾張守・藤原家教(藤原成親の同母弟)の目代である右衛門尉・政友が、延暦寺領・美濃国平野荘の神人を凌礫する事件を起こす。事件自体は小さなものだったが延暦寺の反応は早く、17日には延暦寺所司・日吉社所司が尾張国知行国主・藤原成親の遠流と目代・政友の禁獄を訴えた(『兵範記』)。成親は32歳で権中納言の地位にあった、院近臣の中心人物である。朝廷側が要求を拒否して使者を追い返したことから延暦寺大衆の動きが激しくなり、22日夕刻には山を降りて京極寺に参集し、強訴の態勢に入った。 この報に洛中は騒然となり、後白河は公卿を法住寺殿に召集して対策を協議させるとともに、検非違使・武士に動員令を下して仙洞御所の警備を強化する。平重盛が200騎、平宗盛が130騎、平頼盛が150騎を率いて集まり、「その数、雲霞の如し」(『兵範記』)、「帯箭の輩、院中に満つ」(『玉葉』)という状況となった。 一方、大衆は予想に反して内裏に向かい、神輿八基を担いで待賢門・陽明門の前で騒ぎ立てた。内裏にいたのは高倉天皇、摂政・松殿基房、天台座主・明雲で、修明門を平経正・源重定、待賢門を平経盛、建春門を源頼政が警護していたものの、その兵力は少なかった。大衆は内裏に乱入すると、建礼門・建春門に神輿を据えて気勢を上げた。 後白河は、蔵人頭・平信範や蔵人・吉田経房を内裏に派遣して「内裏に集まって幼主を驚かせ奉るのは不当であり、院御所に来れば要求を聞く」と再三に渡って伝えるが、大衆は「幼主であっても内裏に参って天皇に訴え、勅定を承るのが先例・恒例である」と拒絶し、明雲の説得にも耳を貸さなかった。 検非違使別当・平時忠の「要求を聞き入れるなら速やかに受諾し、聞き入れないのなら武士を派遣して大衆を追い払うべきだ」という進言により、夜に入って法住寺殿で公卿議定が開かれた。内大臣・源雅通は「武士を派遣すれば神輿が破壊される恐れがある」と難色を示し、武士を率いる重盛も後白河の3度に渡る出動命令を拒否して「明朝発向する」と返答する有様だった。強訴の武力鎮圧をあきらめた後白河は、政友の解官・禁獄のみを認めることで事態の解決を図ろうとしたが、大衆はあくまで成親の配流を求めて譲らず、使者となった、明雲をはじめとする僧綱に就いている高僧らを追い返すと、神輿を放置して分散してしまった。 24日、後白河はやむを得ず、成親解官と備中国配流、政友の禁獄を認めた。大衆は歓喜して神輿を撤収し山へ戻っていった。九条兼実は、一切要求を認めないとしながら、大衆がやってきた途端に要求を認めるのは「朝政に似ぬ」もので、武士を招集しながら派遣しなかったことは「有れども亡きがごとき沙汰」と厳しく批判している。
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