八日市飛行場と第二翦風号
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「荻田常三郎」の記事における「八日市飛行場と第二翦風号」の解説
常三郎は「沖野ヶ原は飛行場として地質も気候条件も最適である」と言い、将来はこの地に飛行士を養成する飛行学校を設立したいとした。これを契機に11月には「翦風飛行学校設立期成同盟会」が組織された。 常三郎の訃報を聞いた八日市町は飛行場事業を継続し、同年4月には地元有力者・京都の土木業者の支援を受けて飛行場の造成を開始した。また、翦風号の図面やスペアパーツが残っていたことから、それに並行して熊木九兵衛、伊崎省三らを中心として翦風号の復元計画がすすめられた。同年6月には、日本の民間飛行場の草分け「八日市飛行場」が完成し。「第二翦風号」も7月にエンジン修理を終え、1916年(大正5年)1月29日、パイロットとしてチャールズ・フランクリン・ナイルス(英語版)を招聘、午後5時より飛行場で5分間飛行を行った。ナイルスは3月まで留まり、第二翦風号によるさまざまな飛行を試みた。ナイルスは再来日を約束したが、帰国後の6月に事故死した。 また、5月に孫文や雨森俊彦の依頼で八日市飛行場は中華革命党航空学校生徒の飛行技術訓練に使用された。それから2か月後の同年7月、航空学校卒業生と坂本寿一、立花了観ら日本人教官9名を含む87名の人員は護国戦争に実戦投入されることとなり、中華革命軍東北軍(長:居正)指揮下に「華僑義勇団飛機隊」(管理主任:胡漢堅)を結成、山東省濰県城(中国語版)(現:濰坊市)に展開した。第二翦風号も戦線に投入され、第3隊で飛行訓練に使われた。12月14日、中華革命軍東北軍の解散後返却された。 そんな中、八日市飛行場に陸軍航空部隊を誘致する計画が持ち上がり、大正座で誘致の是非を問う町民大会が開催された。飛び入りで参加した熊木九兵衛は、壇上で引き続き民間飛行場としての運営継続を主張し、亡きナイルスに代わりフランク・チャンピオンの招聘を告知した。1917年5月に来日したチャンピオンは、来るべき翦風飛行学校教官として資金を集めるべく各地で曲芸飛行を行おうとしたがトラブルに見舞われ、10月30日に高知の朝倉練兵場で行われた飛行大会で墜落死、「第二翦風号」も全壊した。 財産を使い果たし、妻の実家から絶縁を言い渡された熊木はやがて八日市町を去り、翦風飛行学校の開校も頓挫した。 2004年4月、旧八日市市制五十周年を機に「翦風号を甦らせる会」により「翦風号」の実物大復元模型機が製作された。製作に当たり、モラーヌ・ソルニエの後継会社のソカタCEOのステファヌ・マイエールからも激励のメッセージが届いた。
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