入門から関取昇進まで
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初めて番付に名前が載った3月場所は序ノ口で7戦全勝優勝、5月場所も序二段で7戦全勝優勝と、2場所続けて各段優勝。本割での連勝記録も伸びていたが、三段目に昇進した7月場所の6番目の相撲で能登櫻に敗れて連勝記録は19でストップした。7番相撲では阿武咲に勝ち、6勝1敗に終わり翌9月場所では幕下に昇進した。幕下に昇進した後も快進撃を続け、わずか2場所で幕下15枚目以内に昇格した。東幕下5枚目まで昇進した2014年3月場所は3番相撲まで黒星続きであったがそれ以降7番相撲まで4連勝し、最終的に場所を4勝3敗と勝ち越しで終える。翌5月場所は関取目前の番付で、十両力士との対戦もあったが、2勝5敗で初土俵以来の連続勝ち越しが止まった。以降も十両昇進をうかがう番付に定着。2015年1月場所では土付かずの6連勝と好調だったが、幕下優勝のかかる13日目の7番相撲で正代に敗れて優勝はできなかった。7番相撲を終えた翌日の報道では「関取昇進は持ち越し」と伝えられたが、十両下位に成績不振者が多かったこともあり、場所後の番付編成会議で新十両昇進が決定。鳥取県出身の関取は第53代横綱・琴櫻以来、53年ぶりの復活となった。2016年11月場所後のインタビューで本人は「この場所で十両に昇進できなければ今も昇進しているかどうかわからない」という趣旨のコメントを述べて振り返っている。
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入門から関取昇進まで
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「照ノ富士春雄」の記事における「入門から関取昇進まで」の解説
高校卒業を控えて2010年に間垣部屋に入門した。高校は中退したとの報道もある。2011年1月場所前の新弟子検査を受けたが、興行ビザの取得が必要なため、初土俵は翌5月技量審査場所となった。5月技量審査場所で共に初土俵を踏んだ力士は、幕下15枚目格付出の千代大龍の他にも前相撲から取った常幸龍らがいる。初土俵を踏んでから関取に昇進するまで名乗っていた「若三勝」の四股名は、入門時の師匠である間垣親方(第56代横綱・2代目若乃花)が大関時代まで名乗っていた「若三杉」にちなんでいる。間垣部屋時代はちゃんこにも事欠き、様々な人から食料を譲り受けるなど苦難を経験した。一部書籍によると、出稽古先でちゃんこを食べられなければ食事抜きになる日もあったほどであったという。 照ノ富士は幕下昇進まで全ての段を1場所で通過するなど順調な出世を見せ、初めての幕下の場所であった2012年1月場所は、関取経験者の出羽鳳を相手に豪快に吊り出して勝利するなど幕下でも実力十分なことを証明する5勝2敗の成績であった。東幕下15枚目だった同年7月場所では3勝4敗と入門して初の負け越しを喫した。2013年3月場所限りで間垣部屋が閉鎖されて伊勢ヶ濱部屋に移籍すると、稽古環境が一気に充実したこともあって2場所連続で6勝1敗の成績を上げ、場所後の番付編成会議で9月場所での新十両昇進が決定した。新十両昇進と同時に四股名を今の師匠の旭富士(伊勢ヶ濱親方)と、現役時代は伊勢ヶ濱部屋(ただし今の伊勢ヶ濱部屋とは系統的つながりはない)の所属だった照國という2人の横綱にちなんだ「照ノ富士」と改める。会見では「立合いが相撲の70%を占めると言われる。それを頭に入れて稽古してますが、まだまだ足りない。もっと頑張らないとだめです」と取り口についての課題を語った。
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