入営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/26 06:21 UTC 版)
入営(にゅうえい)は、兵役義務者または志願によって兵役に編入される者がその服役のためにはじめて兵営にはいることである。
大日本帝国の場合
海軍兵はまず海兵団にはいるから入団という。現役兵は入営し在営するにおよんで軍事上の勤務に服する。
入営期日
一般現役兵の入営期日は徴集年の翌年1月10日が通常であるが、兵種もしくは師団によって期日を異にし、あるいは期をわかちて入営させるものがある。すなわち近衛、第19、第20の各師団、台湾および独立守備隊の歩兵は12月1日と6月1日との2回に入営し、第19師団の各兵科(歩兵、電信兵および輜重特務兵をのぞく)は12月10日に入営する。
輜重兵特務兵は4期もしくは5期にわかちて入営し、看護兵および磨工兵は1月10日(第19師団は12月10日)、補助看護兵は内地各師団(第7師団をのぞく)は9月1日、第7師団は8月1日に入営する。
なお、入営の際に必需品を入れた袋を、陸軍では奉公袋、海軍では応召袋といった[1]。
入営延期
同一家族から2人以上現役兵として同時に在営するため家事上支障あるときは、1人の在営期間中他の者の入営を延期することができ、現役兵として入営すべき者が疾病その他避くべからざる事故により入営しがたきとき等には31日以内(兵種によりその期間を別に規定する)入営を延期する[要出典]。
なお、1931年、入営または応召者の職業の保障のため入営者職業保障法が制定された。
脚注
- ^ 北村恒信著 『戦時用語の基礎知識』 光人社NF文庫、2002年、114頁
入営
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1942年(昭和17年)10月1日、久保は松江の陸軍西部第64部隊に入隊した。そこで7か月の基礎訓練を受けた後、1943年(昭和18年)5月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校。同年8月、ひと足先に美校を卒業し、大陸へ出征していた親友の原田新は、ニューギニアへ向かう途中、輸送船が米軍機の攻撃を受けて亡くなった。士官学校を卒業後、自身も大陸へ出征することになった久保は、発つ直前に原田家を訪ねて、新の部屋にこもってレコードをずっと聴いていたという。 1944年(昭和19年)6月に久保は、中国湖北省湖北省当陽県育渓河に駐屯する第39師団歩兵第232連隊第6中隊に見習士官として着任し、そこで初年兵や補充兵を訓練する教育隊長の任務にあたった。7月18日の夜明け前、第六中隊が守備する尚河砦文哨の前方を八路軍約100人ほどが移動しているとの情報を受けて、教育隊に非常呼集がかかった。教育隊と中隊本部からなる約20名の小隊が編成され、久保は小隊長として斥候出撃した。同隊にいた政森伍長の証言によると、明け方になって目的地へ到着しても敵影を確認できなかったため部隊が転進を始めると、直後に南の山稜から銃声が響いた。振り返ると最後尾にいた久保が倒れており、頭部を狙撃されて戦死した。
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