党内対立と勢力確立とは? わかりやすく解説

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党内対立と勢力確立(1954–1969)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 09:36 UTC 版)

イタリア社会運動」の記事における「党内対立と勢力確立(1954–1969)」の解説

一口に右翼定義されやすいファシズムだが、実際に成立過程社会主義修正マルクス主義影響多分に存在している。一方で民族主義帝国主義部分から君主主義資本主義との親和性存在しイタリア・ファシズム場合政権獲得過程イタリア王家接近している)、王党派党員抱えるなどその事情は複雑である。この流れ党内対立として引き継がれ党内左派社会主義的政策持ち、またファシズム共和制実現されるべきというスタンス持った党内右派は他の右派勢力との連合反共主義唱え一部王政復古すら主張していた。 創始者にして初代書記長のジョルジョ・アルミランテは王家廃したRSI時代ファシズム完成考え党内左派属しており、貧困層救済ファシストにとっての最重要課題であるとも考えていた。アルミランテ体制MSIは他のネオ・ファシスト勢力一線引いた合法路線進め確実に得票伸ばして1953年には全国150票を集めて数十議席獲得した。だが党内対立激化一途辿りアルミランテは退任新たにアウグスト・ディ・マルサニッチェが書記長になった短期間辞職した。 アルミランテ、アウグスト立て続け辞任した後、1954年新たな指導者アルトゥーロ・ミケリーニが選出された。ミケリーニは前述二人異なって旧政権時代重職就いた経験がない、一介ファシスト党員に過ぎなかったが、彼の行った大胆な路線転換MSI後身国民同盟政治路線決定付けた。ミケリーニはそれまで路線右派路線大きく転換し自由主義キリスト教民主主義資本主義など各右派イデオロギー政党政治同盟を結び、与党政策全面的に協力する事を決定した1955年に旧敵国アメリカ指導するNATOへの加盟賛同する運動展開したのがその最たるものであった。 ミケリーニの死後の1969年、一旦は表舞台から退いていたアルミランテが書記長復帰して右派路線傾きすぎた方針是正進めた1970年ファシスト党時代から続くマーク除外して直接的な関連性強調する事を避けた続いて1972年には党内右派最右翼とも言うべき王党派グループ説得して共和制支持」を党として宣言戦後イタリアへ合流アピールしたバランス取れた中道路線示した事が功を奏し同年総選挙MSI結党以来最大得票となる約300票を得て躍進両院合わせて82議席全体議席の1割近く相当する)を占め中堅政党となった

※この「党内対立と勢力確立(1954–1969)」の解説は、「イタリア社会運動」の解説の一部です。
「党内対立と勢力確立(1954–1969)」を含む「イタリア社会運動」の記事については、「イタリア社会運動」の概要を参照ください。

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