党内対立と勢力確立(1954–1969)
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「イタリア社会運動」の記事における「党内対立と勢力確立(1954–1969)」の解説
一口に右翼と定義されやすいファシズムだが、実際には成立過程に社会主義・修正マルクス主義の影響が多分に存在している。一方で民族主義・帝国主義の部分から君主主義・資本主義との親和性も存在し(イタリア・ファシズムの場合は政権獲得の過程でイタリア王家と接近している)、王党派の党員も抱えるなどその事情は複雑である。この流れは党内対立として引き継がれ、党内左派は社会主義的な政策を持ち、またファシズムは共和制で実現されるべきというスタンスを持った。党内右派は他の右派勢力との連合や反共主義を唱え、一部は王政復古すら主張していた。 創始者にして初代書記長のジョルジョ・アルミランテは王家を廃したRSI時代がファシズムの完成と考える党内左派に属しており、貧困層の救済がファシストにとっての最重要課題であるとも考えていた。アルミランテ体制でMSIは他のネオ・ファシスト勢力と一線を引いた合法路線を進め、確実に得票を伸ばして1953年には全国で150万票を集めて数十議席を獲得した。だが党内対立は激化の一途を辿りアルミランテは退任、新たにアウグスト・ディ・マルサニッチェが書記長になったが短期間で辞職した。 アルミランテ、アウグストが立て続けに辞任した後、1954年に新たな指導者アルトゥーロ・ミケリーニが選出された。ミケリーニは前述の二人と異なって旧政権時代に重職に就いた経験がない、一介のファシスト党員に過ぎなかったが、彼の行った大胆な路線転換がMSIや後身の国民同盟の政治路線を決定付けた。ミケリーニはそれまでの路線を右派路線に大きく転換し、自由主義・キリスト教民主主義・資本主義など各右派イデオロギーの政党と政治同盟を結び、与党の政策に全面的に協力する事を決定した。1955年に旧敵国アメリカが指導するNATOへの加盟に賛同する運動を展開したのがその最たるものであった。 ミケリーニの死後の1969年、一旦は表舞台から退いていたアルミランテが書記長に復帰して右派路線に傾きすぎた方針の是正を進めた。1970年にファシスト党時代から続くマークを除外して直接的な関連性を強調する事を避けた。続いて1972年には党内右派の最右翼とも言うべき王党派グループを説得して「共和制の支持」を党として宣言、戦後イタリアへの合流をアピールした。バランスの取れた中道路線を示した事が功を奏し、同年の総選挙でMSIは結党以来の最大得票となる約300万票を得て躍進、両院合わせて82議席(全体議席の1割近くに相当する)を占める中堅政党となった。
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