元禄年間の寺社改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:43 UTC 版)
元禄8年(1695年)から翌年にかけて、神社からの仏教的性格の払拭を狙い、村鎮守の祭主を神官に限定すること(社僧の禁止)、神体としての仏像の禁止(鏡もしくは幣への変更)、別当の廃止、八幡社の廃止等が実施された。追跡調査に基づき「鎮守帳」が編纂され、その神社の来歴が後世においても分析できるようになっている。 八幡社が標的となった背景には、八幡信仰の持つ神仏習合的性格のほか、旧領主佐竹氏の氏神であることから、俗にその影響を排除するためともいう。しかし八幡社は源氏を名乗る徳川家の氏神でもある。また水戸藩内における八幡信仰の拡大は、佐竹氏の支配下ではなく、むしろ寛文年間の寺社改革(一村一鎮守制の施行)を受けて顕著になったものである。寛文3年(1663年)から元禄9年(1696年)にかけての約30年間に、八幡社は40社から105社へと二倍以上に増加した。圭室(1996年)の論文では、寛文7年(1667年)に徳川光圀が吉田神社と静神社の社守を京都に派遣し、吉田神道を学ばせていることから 、元本宗源神道(吉田神道)が唱える反本地垂迹説の推進が政策の動機であり、これに加えて、藩主の氏神を村鎮守とすることを禁じたためではないかと推測している。 八幡社の改廃は徹底したもので、元禄年間の寺社改革の結果、105社の八幡社のうち、101社が整理を受けた。内訳は廃社が6社、神名変更が86社、合祀又は摂末社としての遷座が9社だった。新しい祭神としては吉田明神、鹿島明神、静明神といった水戸藩領内又は常陸国の有力社が大半を占めた。特に吉田明神が顕著であり、これは水戸徳川家の崇敬が篤かったほか、前記の通り、社守による政策協力の影響ともいう。 取り潰しを免れた4社は、多賀郡安良川村の安良川八幡宮(高萩市安良川)、久慈郡馬場村の馬場八幡宮(常陸太田市馬場町)、久慈郡大田村の若宮八幡宮(常陸太田市宮本町)、城下の八幡宮(水戸八幡宮)(水戸市八幡町)で、内三社は佐竹氏と関係の深い神社である。安良川八幡宮に対しても文明11年(1479年)、佐竹氏が38貫文地を寄進したという記録がある。
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