元禄二朱判
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詳細は「元禄小判#元禄二朱判」を参照 元禄二朱判(げんろくにしゅばん)は元禄小判と同品位であり、量目が1/8につくられており本位金貨的性格を有する。慶長金の時代は、一分判より低額の計数貨幣は寛永通寳一文銭しかなく、一分は公定相場で一貫文に相当するため高額貨幣と小額貨幣の中間に相当する計数貨幣が無く、甚だ使い勝手が悪いため、「二朱」という額面は歓迎されるものであった。しかし幕府は慶長金回収を促進するため、二朱判への両替は元禄金に限るという策を講じた。
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元禄二朱判
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元禄二朱判(げんろくにしゅばん)は元禄小判と同品位、1/8の量目でもってつくられた長方形短冊形の二朱判であり、表面は上部に扇枠の桐紋、下部に横書きで「朱二」、裏面は「光次」とその右上に「元」の極印が打たれている。 元禄10年6月晦日(1697年8月16日)にはそれまでの一分判に加えて、慶長金には存在しなかった二朱判を鋳造開始し、同7月9日から通用開始された。 従来、一分判未満の取引には寛永通寳1,000枚近くが必要であったが、この新たな額面の貨幣は小額の取引には重宝するものであった。しかも二朱判への両替は元禄金(元禄小判、元禄一分判)に限定し、この元禄金の優位性つまり元禄小判の所有者のみその利便性を享受できるものとして慶長金の引替回収を図ろうとする幕府の目論見でもあった。 通用が延期された小判および一分判とは異なり、二朱判は宝永の吹替えに伴い宝永7年4月15日(1710年5月13日)に通用停止となった。
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