元祖・お狩場焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:29 UTC 版)
富士観光のもとで再出発した船原ホテルの名物となったのが、「お狩場焼」であった。これは本館から約150メートル離れた船原川の清流沿いで提供される和風バーベキューで、串刺しにしたイノシシ、シカ、ウズラ等の山鳥、アユ、マス、シイタケ、ネギ、ウズラの卵、牛肉、ピーマン、カボチャ、ナス、キヌカツギなど季節折々の材料を炭火焼にしていた。コースが終ると、麦飯、とろろ汁、野菜の沢山入ったけんちん汁も付いて1000円であった。 雨天でも行えるよう、河辺には「佐殿庵(すけどのあん)」という藁屋根、葭葺の建物が設けられており、4棟に400 - 500人を収容することができた。のちに模倣するところも出てきたのか、「元祖、お狩場焼」との表現も見られる。実際に、1963年(昭和38年)には同じ船原温泉では船原館でお狩場焼が提供されていることが確認でき、更に「お狩場焼で名を売っている温泉が伊豆に二ヶ所ある。船原と吉奈である」との言及も見られることから、船原のみならず吉奈温泉でもお狩場焼は広まっていたことがわかる。 敷地内にはこのお狩場焼用の養鱒場、養鶉場も設けられ、新鮮な材料が提供されていた。対岸には茶室風の「鱒の家」が設けられ鱒釣りもできたという。 お狩場焼の由来ははっきりしない。少なくとも表向きの由来は、治承か寿永の頃、伊豆の蛭ヶ小島に配流されていた源頼朝が、西伊豆の土肥実平に蜂起の協力を求める際、狩りに事寄せて、狩猟した肉や魚、山菜などをこの船原の川のほとりで賞味しつつ密談したのが始まりとされており、この伝説は1982年(昭和57年)に天城湯ケ島町文化財保護審議委員会により編纂された『天城の史話と伝説』にも収録されている。 しかし、船原ホテルと三保園ホテルのロゴ用の題字を書いてもいる漫画家の富田英三によれば、「お狩場焼」の名を付けたのは自分であったという。富田は石川から、アメリカ式にバーベキューをやりたいと相談された際、「では、日本風にお狩場焼…といきましょう」と命名し、手頃な岩を「頼朝腰掛石」と名付けたとも記している。また、石川自身も別の記事で「もともとは、アメリカのウィニー・ベーキ(ピクニック料理)の日本版みたいなものである。漫画家の富田英三さんが、お狩場焼――の名付親になって下さったが、イメージがぴったりして、私も大好きである。」と記している。 実際にお狩場焼を賞味した漫画家の清浦ちずこは「中央に大きな炉がきずいてあり、ウズラ、ニジマス、山菜、卵、なんでも網焼きにして好みのタレをつけて食べる野趣味なもの」「女中さんがついていて、炉とテーブルの間をこまめに往来し、あついのを次々にお皿に入れてくれるので私のような不精者にはありがたい」と記している。
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