備芸・豊芸和平
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以後、浦上・宇喜多・能島水軍と毛利・三村の対立が激化。元亀2年(1571年)2月から能島水軍が公然と毛利に反旗を翻し本太城に兵を入れた事に対して小早川隆景が動き、4月までには本太城を攻略。続けて隆景は粟屋就方に兵を与えて児島の救援に向かわせたが5月の備前児島の戦いで浦上軍と援軍に駆けつけた三好氏配下の篠原長房率いる阿波水軍衆に惨敗を喫した。また備中では庄勝資が三村氏の本拠である松山城を占拠して宇喜多に内通し、同時に宇喜多の軍勢が三村領を侵し幸山城を奪取した。9月には再び備中佐井田城で植木秀資(秀長の子)の援軍である浦上・宇喜多と毛利・三村両陣営の武力衝突があったがこれも浦上・宇喜多軍が勝ち、三村元親の実兄庄元祐がこの戦で討ち死にした。この間、毛利包囲網の攻撃が激化する中で毛利元就は病床にあったが、安国寺恵瓊を使者として京の足利義昭へと遣わせて大友・浦上・三好などとの和睦の周旋を依頼していた。しかし、三好が含まれている事に義昭が難色を示し失敗。6月14日には恵瓊の帰国を待たずして死亡し、毛利氏の家督は嫡孫毛利輝元へと移っている。 元亀3年(1572年)、今度は足利義昭が和議の周旋に動き、三好を除いた毛利と大友・浦上間の停戦を柳沢元政に準備させていた。一方で毛利輝元は反抗勢力へと反撃を開始し、3月には浦上宗景と不仲になって交戦状態であった美作三星城主後藤勝基に援軍を送って毛利陣営への引き込みを図り、また宇喜多直家に圧迫されていた備中には吉川元春・小早川隆景が着陣するなど軍事行動を起こしている。毛利の脅威に晒された宇喜多直家は同年6月に足利義昭に毛利との和議の周旋を依頼し、義昭もすぐにこれに応じて毛利方に書状を送って輝元の意見と京への安国寺恵瓊の派遣を求めたが難色を示し、この時は和議の締結に至らず毛利方は兵を退くこともなかった。これ以後、むしろ毛利輝元は備前方の討伐に意欲を見せ、9月には輝元自らが出馬して合流し宇喜多に占領されていた備中日幡城・加茂城・蛙ヶ鼻城の諸城の攻略を目指す一方で、美作では三星城に兵糧や銀子を差し入れた上で因幡国より武田高信を呼び寄せて着陣させるなど攻勢に向けて戦力を集中させた。 しかし、10月上旬に入ると一転して輝元が和議に応じ、備芸並びに豊芸和平が早急に成立し大友・浦上・宇喜多と毛利・三村との間の戦いは停戦状態に入る。輝元が態度を変えた詳細までは不明であるが、毛利家中にも将軍からの書状に動揺が走っていたようで、安国寺恵瓊の前任の外交僧である竺雲恵心は浦上宗景が実子を将軍に人質に出してまで和議を引き出した事を挙げ、和議が成るかは上意次第なので分別ある行動を取るように警告しており、備前方と事を荒立てず和議を受けるべきと考える穏健派の働きかけも有ったようである。しかし、浦上・宇喜多の要望によって動いた事もあってか備芸和平の内容は毛利方にとっては明らかに不利なものであり、備前方より奪った要害12ヶ所の差し渡しに加えて、救援に力を注いでいた三星城の陣の破却までも行わなければいけなくなった。この和睦によって宇喜多は毛利から城を無血で奪回する事ができ、また浦上も毛利が去った隙に後藤勝基との関係を修復したが、毛利方の小早川隆景は特にこの裁定に不満を持っており、浦上・宇喜多を「毎時裏表之儀」と糾弾した上で和睦の成立後も武田高信の美作進駐を続けさせていた。しかし、この和睦によって毛利包囲網の締め付けが弱まったことは事実であり、荷留などの報復を毛利から受けていた能島水軍は毛利への反抗姿勢を弱めるなど包囲網に綻びが見え始めた。
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