備蓄分の穀物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:22 UTC 版)
1932年のソ連の穀物総生産は31年より悪くなく、また、26-30年の平均値よりわずか12%しか低くなく、飢饉といえるほどの収穫減ではなかった。1932-33年の飢饉の原因は、穀物の収穫高の減少ではなく、徴発が44%も増えたことが原因であり、責任がスターリン政権にあったことは明白であるとコンクエストは指摘する。徴発された穀物には、農民の食用分の少なくとも200万トンが含まれていた。 また、備蓄用として保管された穀物がなんら利用されることなく大量に廃棄されていた。穀物倉庫には「国家備蓄」としてストックがあり、ポルタヴァ州の倉庫は満杯だったが、備蓄食料が農民に渡されることはなかった。ポルタヴァ州のレシェチリフカ駅では備蓄された穀物が腐り出したが、OGPUによって警備された。1933年4月−5月には、飢えた村民が倉庫を襲撃したが、銃殺された。ルボチノ地域では、数千トンのじゃがいもが備蓄されていたがこれも腐りはじめていたので、アルコール合同企業に移管されたが原料として使えなかった。 キエフのペトロフカ駅では小麦の巨大な山が腐り、トラクトルスキでは貨車20両分の穀物が水浸しになった。クラスノグラードでもバフマチでも大量の小麦が腐り、1933年秋には穀物を積んだ貨車がチェリビンスク近くで故障し、一ヶ月間放置された。その間、盗みにくるものがいたが殺害された。再び穀物を移動しようとしたときには雨水などで浸り、腐っていた。 こうした廃棄処分について党幹部も認知しており、ポーストィシェフは1933年11月に「相当量の穀物が、取扱の不注意によって失われた」と述べている。また、公的報告書では「サボタージュを受けたため」と報告されたこともあった。
※この「備蓄分の穀物」の解説は、「ホロドモール」の解説の一部です。
「備蓄分の穀物」を含む「ホロドモール」の記事については、「ホロドモール」の概要を参照ください。
- 備蓄分の穀物のページへのリンク