備辺司での取り調べ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 13:52 UTC 版)
日本へ密航した安龍福は帰国後捕らえられ漢城(現在のソウル)の備辺司へ移送される。備辺司は朝鮮の軍事を担当する官庁で、ここでの尋問後、日本人と訴訟事件を起こした罪により流罪となる。この時の安龍福の供述内容は朝鮮の『粛宗実録』粛宗22年(1696年)9月戊寅条に記録されている。 その供述内容を要約すると、安龍福は僧侶の雷憲らと鬱陵島に行くとそこで多くの日本人に会った。ここは朝鮮領なのになぜ来ているのだと言って恫喝すると逃げたので、追いかけて子山島に行き、そこにいた日本人を更に追いかけた。途中狂風に遭い隠岐島に漂着した。島主へ「前に来た時(1693年4月に鬱陵島で大谷家により日本へ連れて行かれた時のこと)伯耆国で将軍から鬱陵島と于山島までを朝鮮領と定めた書契をもらったが守られていない」とせまったが返答がないので伯耆国へ行った。そこで「前に来た時に将軍からもらった書契を対馬藩に奪い取られ、その後対馬藩は何度も使者を送って横暴を極めているので(幕府の命による対馬藩の鬱陵島領有交渉のことと考えられる)将軍へ上訴文を提出したい」と言うと、対馬藩主の父親がやって来て将軍に伝わると息子が死罪になるのでやめてくれというので、その代わりに越境してきた15人の日本人が処罰された。そして、そこから船で帰った。 この供述内容は不法渡航の罪を逃れるためか、不自然な点や明かな作り話が多数あり信憑性はないが、この中の安龍福の行動の大筋は、松島(現在の竹島)へ渡ったとすることを除くと日本側の資料と一致している。
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