伝統的絵画からの影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:47 UTC 版)
「エドゥアール・マネ」の記事における「伝統的絵画からの影響」の解説
マネの生まれた家は、ルーヴル美術館のすぐ近くにあり、マネは、小さい頃から伯父に連れられてここを訪れていた。画家を志した1850年代には、トマ・クチュールの弟子としてルーヴル美術館に登録し、模写をしており、ティツィアーノなどのヴェネツィア派を中心に、フランドル絵画、スペイン絵画の作品の模写が現存している。オランダのアムステルダム国立美術館、フィレンツェのウフィツィ美術館などヨーロッパ各地の美術館を訪れた際も、模写を残している。また、当時、過去の主要画家の作品を網羅する美術全集や、エッチング図版入りの美術雑誌が刊行されるようになっており、マネは、伝統的な絵画や同時代・外国の作品を複製図版で目にすることができる環境にあった。 ティツィアーノ『田園の奏楽』 ラファエロ『パリスの審判』に基づくマルカントニオ・ライモンディの版画 19世紀フランスの画家にとって、ルネサンス期のイタリア絵画は基礎として必ず学ぶべき絵画であり、マネもこれを研究していた。マネの『草上の昼食』は、友人マルセル・プルーストの回想によれば、ティツィアーノ(当時はジョルジョーネ作とされていた)の『田園の奏楽』に発想を得たものである。加えて、3人の人物像を描くに当たっては、ラファエロの『パリスの審判』の右下の3人のポーズを採用し、モデルにポーズをとってもらって制作している。『オランピア』は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』に依拠しつつ、その構成要素をことごとく変更することによって、原作の「美しいヌード」を否定した作品である。 また、マネは、スペイン絵画からも大きな影響を受け、特に1865年のスペイン旅行後は、ディエゴ・ベラスケスやフランシスコ・デ・ゴヤの影響が明らかな作品を多数制作している。マネの『皇帝マクシミリアンの処刑』は、ゴヤの『マドリード、1808年5月3日』を下敷きにした絵であるが、ゴヤが民衆の英雄性、悲劇性を強調しているのに対し、マネの作品には高揚感はなく、冷徹なレアリスムに徹しているのが特徴である。背景のない全身像である『悲劇俳優』や『笛を吹く少年』は、ベラスケスの『道化師パブロ・デ・ヴァリャドリード』に基づいたことが明らかである。マネは、スペイン旅行の直後、手紙に「絵画における自分の理想の実現を彼(ベラスケス)のなかに見出した」と書いている。 そのほか、フランドル絵画(ピーテル・パウル・ルーベンスなど)、オランダ絵画(フランス・ハルスなど)、フランス絵画(ル・ナン兄弟、アントワーヌ・ヴァトー、ジャン・シメオン・シャルダンなど)の影響を受けた作品も指摘されている。 マネは、オールド・マスターの作品から、様々な主題やモチーフを引用し、現代的な文脈に置き直していったといえる。
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