他人和与の禁止と訴訟における和与の広がり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/21 08:16 UTC 版)
「和与」の記事における「他人和与の禁止と訴訟における和与の広がり」の解説
その一方で鎌倉幕府の法制の特徴として贈与の意味での和与に対する制限が行われたことが注目される。『御成敗式目』では従来きわめて限定的にしか認められていなかった悔返を大幅に認め、特に親が親権に基づいて子孫に対する悔返はほぼ無制限に認められることとなった。これは、御家人及びその一族郎党が惣領を中心とした族的結合(惣領制)と財政基盤(御家人領)の維持していく姿勢に基づくもので、惣領もしくは親の指示に従わず統率を外れるものを幕府への奉公の実行に対する障害とみなして排する意図があった。この他にも和与に代わって一代限りの贈与である一期分が行われるようになったのもこの時期である。だが、公家法・武家法問わず他人和与の悔返を認めることは取引関係の不安定をもたらすことから、法理としては認められなかった。だが、鎌倉幕府から見れば他人和与は御家人領の散逸のみならず、幕府と主従関係にある御家人にあたえた恩給知行が、主従関係にない第三者に和与された場合、第三者には「御恩」に対する「奉公」の義務が無く、義務違反による恩給地の取り戻し(収公)が不可能になるという問題も生じる可能性があった。そこで、鎌倉幕府は文永4年(1268年)他人和与そのものの禁止を命じた(同年12月26日付「関東評定事書」(『新編追加』所収『鎌倉遺文』9838号)。 もっとも、寺社への寄進などは全面禁止はされず、それ以外の他人和与についても禁止が命じられた後も売買や譲与、担保の対価として結果的に他人和与が行われる事態が相次ぎ、鎌倉幕府としても御家人役の仕組を維持することが困難となった。そこに元寇の発生が追い討ちをかけ、鎌倉幕府としても朝廷と連携しながら積極的に公権力の行使を行うようことで体制の維持を図る必要性に迫られた。そこで行われたのは、裁許状・下知状交付を前提にした訴訟前段階での和与奨励策や「召文違背」を理由とした敗訴判決など迅速な訴訟処理策であり、より強力な他人和与の規制と恩給地の回復を目指したのが永仁の徳政令であった。 以後も他人和与の禁止と徳政令によって恩給地の流出の阻止を図ろうとする武家政権側と徳政令からの公的保護や対抗文言を備えようとする商人・寺院などの第三者側、更に中世後期には徳政一揆によって流出した土地の回復を図ろうとする農民らを巻き込んだ対立は続いた。その一方で、和与に基づく訴訟の終結という法手続は中世の社会に広く浸透していくことになった。
※この「他人和与の禁止と訴訟における和与の広がり」の解説は、「和与」の解説の一部です。
「他人和与の禁止と訴訟における和与の広がり」を含む「和与」の記事については、「和与」の概要を参照ください。
- 他人和与の禁止と訴訟における和与の広がりのページへのリンク