仁川沖海戦および旅順口攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 22:02 UTC 版)
「大日本帝国海軍の歴史」の記事における「仁川沖海戦および旅順口攻撃」の解説
詳細は「仁川沖海戦」および「旅順口攻撃」を参照 日本は1904年2月6日にロシア側へ国交断交を通知し、同日佐世保から旅順と仁川のロシア艦艇攻撃のために連合艦隊が出撃した。仁川のロシア艦艇攻撃は第四戦隊司令官瓜生外吉少将隷下の防護巡洋艦4隻と臨時に加えられた装甲巡洋艦2隻を中心とした部隊が担当した。仁川にいたロシア艦艇は防護巡洋艦ヴァリャーグと航洋砲艦コレーエツであったが、2月8日、瓜生少将はロシア艦艇に対して2月9日正午までの出港を要求した。ロシア側がこれを受け入れ出港したため、12時20分から戦闘が開始された。戦力的に圧倒的に不利なロシア側は損害を受け始めると仁川港に戻り、コレーエツは自爆、ヴァリャーグも自沈した。 連合艦隊本隊は旅順に向かい、2月8日夜間から駆逐艦10隻が港内に侵入、9日早朝に魚雷攻撃を実施し戦艦2隻、防護巡洋艦1隻に損害を与えた。2月14日早朝にも駆逐艦の夜襲が行われたが戦果不明であった。このため、2月24日に閉塞船5隻による第一回目の旅順港閉塞作戦を実施するが効果は不十分であった。夜襲を許したスタルク中将は罷免され、マカロフ中将がロシア太平洋艦隊司令長官に任命され、3月6日に着任した。マカロフは積極的に艦艇を出撃させ、3月10日に港外で海戦が発生、双方に損害が出た。3月22日未明から連合艦隊の戦艦2隻が港内に向かって間接射撃を行うと、ロシア艦隊主力が出撃して来たため、日本側は退却した。3月27日に閉塞船4隻による第二回閉塞作戦が実施されるが、これも失敗した。4月12日夜、日本側は旅順口外に機雷を敷設、出羽重遠第三戦隊司令官が指揮する部隊(防護巡洋艦4隻、装甲巡洋艦2隻臨時補強)が囮となってロシア艦隊主力(戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦9隻)を誘い出した。第一戦隊(戦艦6隻)が救援に到着するとロシア艦隊は反転したが、この際に戦艦ペトロパヴロフスク、戦艦ポベーダが共に触雷、ペトロパヴロフスクは砲弾と魚雷の誘爆に加えてボイラーが爆発したことにより沈没し、座乗のマカロフ中将も戦死した。5月2日の夜には閉塞船12隻を投入した第三回旅順口閉塞作戦が実施されたが失敗した。5月5日からロシア側も機雷敷設を開始し、15日に八島と初瀬が触雷沈没、同日に吉野が春日に衝突されて沈没した。その前後にも3隻が触雷沈没、2隻が事故で失われた。また、2月末頃からウラジオストク巡洋艦隊が活動を始め、3月以降は第二艦隊を対その対応に割かねばならなくなっていた。なお、沈没した八島と初瀬に代わり、建造中にアルゼンチン海軍から急遽買い取った春日型装甲巡洋艦2隻が第一艦隊第一戦隊に編入された。 結局、海上からの攻撃のみでは旅順艦隊の撃滅は無理と判断した海軍は陸軍に協力を依頼し、第3軍が旅順要塞攻略を担当することとなった。
※この「仁川沖海戦および旅順口攻撃」の解説は、「大日本帝国海軍の歴史」の解説の一部です。
「仁川沖海戦および旅順口攻撃」を含む「大日本帝国海軍の歴史」の記事については、「大日本帝国海軍の歴史」の概要を参照ください。
- 仁川沖海戦および旅順口攻撃のページへのリンク