交通状況の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 09:36 UTC 版)
「プロビンスタウン (マサチューセッツ州)」の記事における「交通状況の歴史」の解説
記録に残るプロビンスタウンの歴史において、長年、特に南の海岸には天然の深い港があり船が安全に航行でき、風や波の影響をあまり受けないため海運と深く繋がっている。またプロビンスタウンは細長い半島の先端にあるため、地形的に大陸部と分断されていた。 かつてプロビンスタウンで最も安全な係留地であったイースト・ハーバーはプロビンスタウン・ハーバーから1,000-フート (305 m)奥まった入り江にあり、両方の港の行き来は砂洲に隔てられて困難であった。19世紀後期まで、北の細くのびる「バックショア」(後浜)と呼ばれる海岸沿いの道以外に、本土と繋がる道路はなかった。1854年、イースト・ハーバーに木製の橋が架けられたが、2年後の冬に嵐と凍結で崩壊した。翌年再建されても、この橋を渡るルートはバックショア側と同様に、砂浜を数キロも進まねばならず、嵐で水嵩(みずかさ)が増すと通れないこともあった。これによりプロビンスタウンは半島というよりも島と同等ともいえた。住民たちは通信や航行、商業において結局、港を使用しなければならなかった。 1868年、イースト・ハーバーに堤防ができ線路が敷かれ、1873年、鉄道の開通式が盛大に行われると、1877年には木製の橋と砂浜の道は自動車道路に作り替えられた。鉄道の終点は埠頭で、現在のマクミラン埠頭にあたる。鉄道および道路が通じたことにより漁師は船の乗り降りおよび鉄道での魚の輸送が楽になった。 鉄道および道路がプロビンスタウンまで伸びるのは、だいぶ遅れた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}"当時町に道路はなかった。カート、馬車、ワゴン、馬、牛もいないのだから道路がある訳がない。各家に船着き場までの小道があり、一度外に出れば税金や通行料なしで通ることができる。近所への小道、学校への小道、教会への小道がある。曲がりくねった小道もあるだろうが、彼らは昼夜問わず、陸地だろうと水域だろうと上手に通る。一方、浅い水が流れる道路は毎年1日2回広く長い範囲に亘って水嵩が増し、もし通ればオランダ兵が喜ぶことだろう。" —シェナ・リッチ、『Truro—Cape Cod. Or, Land Marks and Sea Marks 』(1883年) 町内の道路区画は歴史的に重要な海岸を考慮し、国際的な往来と商業の鍵となった。町の発展につれて沿岸部が組織的に拡張し、町内のあらゆる商業活動と社会生活が営まれる海岸部を縫うように、主要な道路が密に繋いでいった。それぞれの住宅の裏手から続く歩道がまとまった通りを当初は「タウン・ロード」と呼んでいた。1835年、郡政委員会は「フロント・ストリート」と改名し、その後、現在の「コマーシャル・ストリート」となった。フロント・ストリートと並行するかつてのバック・ストリートは、現在は「ブラッドフォード・ストリート」という名になった。 "当時住宅は海岸に面していた。当時から向きを変える家もあったが、おもて玄関を海側に向けたままの家もあった。町に越してきて短いとある医者の男が区画を64フィート (20 m)に定めようと提案したが、住民投票で否決された。彼は譲歩して32フィート (9.8 m)で提案し直したが、22フィート (6.7 m)がいかなる用途にも適しているとされた。" —ナンシー・W・ペイン・スミス、『The Provincetown Book 』(1922年)
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