事件発覚の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/19 14:57 UTC 版)
「九州電気軌道不正手形事件」の記事における「事件発覚の経緯」の解説
九州電気軌道と電気事業で競合する電力会社に、九州水力電気(九水)というものがあった。同社は後発の電力会社で、先に開業していた九州電気軌道とは当初協調関係にあったものの、1920年代になると北九州工業地帯や筑豊の諸炭鉱への電力供給をめぐって対立、需要家を相互に奪い合うという「電力戦」を展開していた。1920年代後半になって紳士協定を結ぶものの以降も対立が続いたため、九州水力電気は1928年(昭和3年)の麻生太吉社長就任を機に、九州電気軌道の株式買収による経営権掌握を目指すようになる。そして九州水力電気は、九州電気軌道の大株主でもあった専務の松本枩蔵からの株式買収を試みた。 九州水力電気からは取締役の大田黒重五郎が枩蔵との折衝にあたり、1930年8月、社長に昇格したばかりの枩蔵からの株式買収に成功、手続きを完了した。枩蔵は松方幸次郎や松方が経営した十五銀行からも九州電気軌道の株式を譲り受けていたため、売買時には約35万株の九州電気軌道株式を抱えていた(当時の九州電気軌道は資本金5,000万円、株数100万株)。株式を手放した枩蔵は10月8日付で社長を辞任。枩蔵に代わって大田黒が第3代社長となり、麻生も取締役に選出、さらに九州水力電気常務の村上巧児が専務に新任された。かくして九州電気軌道の経営権は新たに大株主となった九州水力電気に掌握された。 ところが経営陣の交代直後の10月11日夜、取締役となったばかりの麻生太吉は福岡県知事松本学から至急電報で呼び出され、翌12日朝に大阪へ出向くと、松本知事から前社長松本枩蔵による長年にわたる社名手形の不正発行を打ち明けられた。そして大阪空堀の自邸に戻っていた枩蔵に面会し、本人からも事件を告白されたという。不正手形事件の発覚である。麻生はただちに上京して当時の大蔵大臣井上準之助に事後処理について支援を要請、社長である大田黒にも事態を告げた。 大田黒から事態を知らされた専務の村上巧児が調査した結果、枩蔵が過去10年間にわたって社印・社長印を不正に持ち出して関西を中心に振り出していた社名手形は合計2,250万円に及んでおり、支払期日は早いもので10月16日に迫っていることが判明したという。枩蔵はこれら期限が迫る不正手形の償還を、株式譲渡の対価として交付された九州水力電気の社債(6分利付き社債総額2,500万円)の売却益をもって秘密裏に行う予定であったが、世界恐慌による社債価格の暴落でその計画が破綻したために松本知事に事態を告白したとされる。枩蔵が不正手形の発行に手を染めたのは、書画・骨董品の蒐集、社交界での浪費、義兄松方幸次郎の金融支援などに充てる資金を得るためであり、また会社の資金調達を円滑にするための株価の高値維持操作(株式の積極的な買収)が目的であったと指摘されている。
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