事件と災害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:21 UTC 版)
各地の商人や近郷の農民がたえず往来する物資の集散所として発展するにつれ、様々な治安上の問題が発生した。また、宿場町として発展し、整備がすすむにつれ、郡山宿は参勤交代の大名の宿所ともなっていったことで、藩は村役人に対して喧嘩の防止や火災予防などについて厳しい規制を行った。 1830年(天保1年)以降1868年(明治元年)に郡山宿で発生した事件は、代官所に報告された件数だけで盗難17件、傷害13件、喧嘩5件(傷害のないもの)、死亡18件あり、被害者・加害者ともに領外の者が大勢を占めた。件数として盗難が多いのは宿場町の特徴であり、空き巣・宿泊中の枕探し・盗品の質入れがみられる。宿泊中の商人が回収した貸付金を盗難に遭うなど、一般に領外の商人が標的となった。傷害事件の多くは追剥や若者の喧嘩によるもので、死亡事例3件を含む。追剥は安積山や如宝寺前の大槻道や横塚道での例が知られている。死亡事件18件には、飯盛女との心中事件や旅行者の行倒れも含まれる。また、代官所に報告された件数には含まれていないなかに、1866年(慶応2年)に多田野原村御霊櫃峠頂上の阿弥陀堂を拝観に来た会津藩士3名が、帰路の峠道で行き合った商人を殺害して路銀を強奪して逃げた追剥事件などがある。 火災は31件あり、このうち付け火は1件、不審火が8件である。出火原因として明らかなところでは灰の取り扱いの不始末によるものが最多で8件、残火や燈明から出火したものが各3件、煙草の不始末によるものが4件、針火から出火したものが4件あった。記録に残る大火には1807年(文化4年)3月21日の昼九ツ時(正午)に上町の茶屋町柏木長左衛門の稲屋から出火し、強風に煽られて上町下町のあわせて1996軒を焼いた「駒出茶屋火事」がある。この火災では、郡山宿にあった郡山組各村の郷蔵が焼失し、保管米713石余の9割にあたる661石米が失われた。また、1832年(天保3年)1月28日には、14歳の子どもの火遊びによって如法寺の本堂床下から出火し、842軒を焼いた大火が記録に残る。
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