事件と転落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/18 14:04 UTC 版)
「メーベル・ノーマンド」の記事における「事件と転落」の解説
セネットを追うようにキーストン社に移籍したノーマンドであるが、当時セネットと恋人関係にあったとされている。しかし、キーストンを辞める数年前には破局を迎えたとされる。1918年、ゴールドウィン・ピクチャーズ(後のメトロ・ゴールドウィン・メイヤー)と契約し、カリフォルニア州カルバーシティーにスタジオを設立した。いくつかの長編映画の主演を務めたが、この時期は精神が不安定になり、度重なる情事やアルコール依存症、そしてコカイン中毒などで激痩せするなど、徐々にノーマンドのキャリアもが不安定になっていく。その際読書に目覚め、夢中になったという。 1920年代始め、映画監督のウィリアム・デズモンド・テイラーが自宅で殺害される事件が起こった。当時、ノーマンドとテイラーは親密な関係にあったとされ、事件当日も2人は一緒だった。ノーマンドがテイラーから本を借り彼の自宅を出た直後、事件は起こったとされる。ノーマンドは重要参考人として取調べを受けたというが、結局、犯人が逮捕されることなく事件は迷宮入りになった。また、ノーマンドは精神が不安定になっていたためコカインの常習者であることが発覚し、それらのすべてがメディアによって報道された。当時はロスコー・アーバックルの醜聞(アーバックルの項に詳しい)によってメディアや世間によるハリウッドへの風当たりが非常に厳しかった時期である。2年後の1924年、それまでの間は2本の長編に出演するだけだったが、今度はお抱えの運転手の男が交際相手の富豪を銃撃するという事件が起こった(相手は一命を取り留めた)。だがこの事件によりイメージの悪化が決定的になり、女優生命はほとんど絶たれてしまう。1926年にハル・ローチ・スタジオ社で映画復帰するが興行成績は芳しくなく、同年に旧知の俳優であるルー・コーディと結婚。ノーマンドはハリウッドの第一線から完全に退いた。 1923年に結核を患う。療養の甲斐なく1930年2月23日カリフォルニア州モンロビアで死去。37歳だった。 Her Awakening (1911) Fatty and Mabel Adrift (1916) Dodging a Million (1916) Mickey (1916) The Venus Model (1918) Joan of Plattsburg (1918) Peck's Bad Girl (1918) Sis Hopkins (1919) When Doctors Disagree (1919)
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