事件と調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 14:27 UTC 版)
「1991年ソ連国内軍ヘリ撃墜事件」の記事における「事件と調査」の解説
当日の現地時間 (UTC+4) 14時42分、ナゴルノ・カラバフ自治州(自治州側は、すでに「ナゴルノ・カラバフ共和国」を自称して9月2日に独立宣言を行っていた)のマルトゥニ地区 (ru) カラケンド(ロシア語版)から3キロメートルの地点で、乗員含め計22人が搭乗したソビエト連邦国内軍(ロシア語版)所属のMi-8が墜落した。搭乗者にはアゼルバイジャン共和国の元政府高官やジャーナリスト、そしてロシア共和国とカザフ共和国からの停戦監視団員が含まれていた。ヘリは、直前にロシア=カザフ間で取り決められたジェレズノヴォツク共同宣言 (en) に基づく停戦を監視するために、アゼルバイジャン側の代表を伴い、自治州外のアグダムから、紛争のただ中にあった自治州内マルトゥニ(ロシア語版)に向かう予定であった。 事件直後にタス通信が「ナゴルノ・カラバフ共和国」側のソースにより報じた内容は、ヘリが霧の中で岩場に衝突した、というものであった。しかし、その後の調査で機体の胴にロケット砲の爆発のような穴が確認されたため、パイロットエラーや悪天候を原因とする説は弱まった(また、事件当時の現場の視界は6-8キロメートルあった)。軍が現場に到着した時には、ヘリの装置やジャーナリストの撮影機材、犠牲者たちの貴重品、そして12丁の拳銃はすでに略奪された後であった(遺体の一部が持ち去られたとの主張もある)。しかしブラックボックスは現場に残されており、これは調査のためバクーへ送られた。 ヘリには3度の砲撃を受けた跡があり、ローターや機体の穴から、攻撃手段は大口径の戦車砲、PKや14.5mm口径のPKTVであろう、と調査団は推定した。また、未確認の報道によれば死体にも弾痕があり、事件直後に現場で正体不明のヘリや現場に向かう緑色のGAZ-56 (ru) を目撃したとの証言も挙がっている。事件の翌21日には、現場に国内軍少将のヴャチェスラフ・ポノマリョフが到着し、アゼルバイジャン大統領の了解のもと、さらに連邦検事総長のニコライ・トルービン (ru) や連邦検察局長、航空工学専門家、軍事検察官や連邦内務副大臣もアゼルバイジャンへ入った。 同じく21日、調査団団長のアディル・アガエフは、ヘリは地上からの大口径の武器によって撃墜され、現場からは武器や撮影機材が持ち去られていた、とテレビ放送で発表した。これに対して、人民代議員大会に「ナゴルノ・カラバフ共和国」とアルメニアから出席していたゾリ・バラヤン(ロシア語版)、ヴィクトル・アンバルツミャン、ゲンリフ・イギチャン (hy)、ソス・サルグシアン(英語版)は、アルメニア人武装勢力は潔白であるとソビエト連邦中央テレビで訴えた。さらに、「事件直後の現場に、ナジーブッラーのアドバイザーであったアゼルバイジャン共産党元第二書記のヴィクトル・ポリャニチコ(ロシア語版)がいたことは偶然ではない。彼は2年に渡ってカラバフ(ロシア語版)で煽動活動に従事していた」と主張した(ポリャニチコはアゼルバイジャン側が設置した自治州管理委員会の長であった)。
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