ジェレズノヴォツク共同宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:54 UTC 版)
「ナゴルノ・カラバフ戦争」の記事における「ジェレズノヴォツク共同宣言」の解説
ほどなくして、ナゴルノ・カラバフ問題に関する最初の和平調停が、ロシア共和国最高会議議長ボリス・エリツィンとカザフ大統領ヌルスルタン・ナザルバエフによって開始された。1991年9月20日から23日にかけてバクー、ギャンジャ、ステパナケルト、エレヴァンを視察し、両当局の合意を得て会談を重ねたエリツィンとナザルバエフは、両国大統領に共同宣言への署名を認めさせることに成功した。ロシアのジェレズノヴォツクで署名されたこの宣言により、紛争地域からのソ連軍及び内務省軍を除く全軍の撤退、捕虜と避難民の帰還の許可、輸送・通信システムの正常化、そして停戦交渉の即時開始が取り決められ、和平プロセスはロシアとカザフの監視団によって監督されることとなった。 しかし、宣言から僅か2か月後にアルメニア側の武装勢力がロシアとカザフの監視団員の同乗したMi-8輸送ヘリを撃墜し、乗組員全員を死亡させる事件が発生した。これによってカザフ側は和平活動を停止し、共同宣言は以降捨て置かれた状態となってしまう。やがてソビエト連邦の崩壊に際して連邦内務省軍は12月19日にナゴルノ・カラバフから撤退を開始し、27日に撤退を完了した。以降、モスクワの統制を失ったナゴルノ・カラバフ、アルメニアとアゼルバイジャンは宣戦布告のないままに全面戦争を激化させてゆくこととなる。
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