事件と初動捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/20 03:08 UTC 版)
1946年(昭和21年)4月6日、東京都八丈島三根村で、66歳の独居女性Cが自宅で死亡しているのを近隣住民Dが発見した。Cの遺体には姦淫された形跡があり、その頸部には真田紐が巻き付けられていた。さらに、遺体はきちんと畳んで重ねられた布団の間に隠され、その他小物に至るまで現場の状況は整然としていた。しかし、現場には座布団が被せられた石油灯ランプも転がっていた。現場に物色された形跡はなく、Cは周囲から恨みを買うような人物でもなかった。また、Cは身綺麗で年齢よりもかなり若く見られていたため、八丈島警察署は姦淫目的での犯行と見て捜査を開始した。 しかし、現場には指紋も足跡もなく、唯一の物証である真田紐もありふれた軍用ヘルメットからの放出品であり、捜査は難航した。警察から検案を嘱託された島の開業医は、顕微鏡すらない環境で遺体の検案を行い、Cは4月4日22時頃に死亡したと鑑定した。しかしその根拠は、死後硬直の解硬と死斑の程度から見て死後2、3日経っており、また姦淫であるから犯行は夜間であろう、という曖昧なものに過ぎなかった。さらに、検案の翌日7日にはDとその次女が「3日夜にCを家に招いておいたのに現れなかった」「C宅は4日朝から遺体発見まで雨戸を閉め切っていた」と証言したため、捜査主任の渡部定義警部補は検案書の死亡推定時刻を3日22時頃と訂正させた。 やがて捜査の目は戦時中八丈島に駐屯していた陸軍向田部隊の関係者に向かい、何人もの元兵士が取調べを受けた。6月9日には東京大学医学部法医学教室助手の松永英らが島に入り、同月15日には警視庁本庁刑事部捜査一課からE、峰岸演二両巡査部長を始めとした捜査陣も投入された。その後、7月25日の松永らによる再鑑定の結果、遺体の膣内に残された内容物の血液型はA型の反応を示した。また、松永らはCが食後およそ1時間以内に殺害されたとも鑑定している。
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