事件と予審
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 01:05 UTC 版)
1914年(大正3年)12月30日の朝、新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市江南区)の農家で、一家の父(当時50歳または49歳)が納屋で撲殺されているのを、養女(当時14歳)が発見した。屋外に積もった雪には外部からの侵入の跡がなかったこと、血の付いた服が屋根裏に隠されていたことなどから、通報を受けた当局は家族による犯行と断定し、同日中に被害者の長男(当時23歳または21歳)、次男(当時19歳または17歳)、妻(当時45歳)、義母(被害者妻の養母。当時68歳)の4人を検挙した。 翌31日の予審において、次男は父の殺害を自白した。次男の自白によると、4人が父の殺害を計画したのは犯行前日の29日の晩とされる。話を切り出したのは祖母であったが、父は働きもせず酒を飲み、借金を作るばかりか生命保険にも加入していたので、他の3人もそれに同意したという。そして、翌30日の朝5時半、日課の米搗きのために納屋へやって来た父を待ち構え、自らが杵で滅多打ちにするとともに、兄が襟巻きで首を絞めて殺害したという。しかし、他の3人はそのような共犯関係を否認し、次男も直後には自白を撤回した。次男は、取調べ中も母や祖母が拷問を受けて泣いているのが聞こえ、それに耐えられず自白した、と主張した。 ところが、翌1915年(大正4年)1月15日の第2回予審になって今度は長男が、他の3人は事件に無関係であり、父は自分1人で殺害したとの自白を行った。自白によると、長男は遊女を買う金欲しさに家の米を盗んで売ろうとしたが、納屋へ忍び込んだところへ父が現われたため、咄嗟に杵で滅多打ちにして撲殺したという。だが、やはり長男もほどなく自白を撤回した。長男は、監獄の外に残された幼い弟妹を気にかけ、加えて70歳近い祖母が獄死するのではないかと恐れて、自分一人で罪を被ろうとしたのである、と主張した。
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