事件とスクープ
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1957年(昭和32年)に草柳大蔵が『週刊新潮』に書いた「八月六日の遺産-はじめてルポされたABCCの実態」は、ABCC(原爆傷害調査委員会)に関する初めての報道になった。 梶山季之グループの記事では、『週刊明星』の「デートも邪魔する警職法!」は反響を呼び、政府法案が撤回されることになった。また『週刊文春』では、東京都知事選挙における有田八郎に対する怪文書事件では、犯人を突き止めて、警察による逮捕に導き、また内閣調査室に関係する押田機関の存在を暴いたりした。梶山グループは梶山軍団とも呼ばれたが、そのメンバーだった恩田貢はダグラス・グラマン事件、ロッキード事件などのスクープをものにした。 1963年(昭和38年)には『婦人倶楽部』に春日野八千代の偽手記が掲載されて抗議を受けてニュースになったが、この手記もある大阪在住のトップ屋がでっちあげたものだった。 1965年(昭和40年)に『週刊文春』の大竹宗美は、三矢研究の情報を社会党の楢崎弥之助に提供して、議論を呼び起こした。 同年魚住純子が元所属していたプロダクションの社長がトップ屋の山口ナナにスキャンダルを売り込み、これを『週刊実話』に掲載したために魚住に告訴され、有罪となった。 大鵬の結婚相手をすっぱ抜いたこともある大滝譲司は、1969年(昭和44年)のプロ野球の黒い霧事件では、行方をくらました永易将之の独占インタビューを『内外タイムス』に掲載して注目を浴びた。元CIAであり下山事件の真相を知っていると語ってマスメディアで名を知られた新谷波夫は、その後トップ屋になり、1966年(昭和41年)のビートルズ来日の時にはガードマンとして潜り込んでメンバーの行動を漏らし、1969年(昭和44年)デヴィ夫人が未亡人となった時にはマスコミ向けのスポークスマンとして活躍した。 1970年(昭和45年)の富士銀行19億円不正融資事件では、情報が公開されない状態で金融業界紙出身の初川三郎が『週刊実話』に特集記事を掲載して、スクープとなった。
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