九四式軽装甲車の元ネタは何か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 22:46 UTC 版)
「九四式軽装甲車」の記事における「九四式軽装甲車の元ネタは何か」の解説
九四式軽装甲車は一般にはカーデンロイド Mk.VI豆戦車を参考に開発されたと言われている。それ自体は間違いでないにしても、Mk.VIと九四式の間には、明らかな、隔絶ともいえる飛躍がある。 2名の乗員配置が、Mk.VIが車体後部の戦闘室に並列式なのに、九四式は車体前後にタンデム式。エンジン位置が、Mk.VIは車体後部の乗員の間なのに、九四式は車体前部右側。武装が、Mk.VIは車体前部右側の銃架に装備、九四式は車体後部の旋回砲塔に装備。 2人乗りの豆戦車という概念が共通しているだけで、両車の設計には共通点がまるでない。Mk.VIから九四式が直接的に開発されたとするのは無理がある。 Mk.VIを参考にした各国の豆戦車でも、例えば(以下、括弧内は開発年)、T-27(1931年)でも、ルノーUE(1932年)でも、C.V.33(1933年)でも、乗員配置は並列式である。直接的に開発されたのであれば、九四式の乗員配置も並列式になったはずである。 ゆえに、Mk.VIと九四式との間に、ミッシングリンクとしての何らかの存在が無ければ、おかしいわけである。 そこで、日本軍の兵器開発における他の例からして、諸外国の同様の兵器を参考・模倣としたのでは、とする当然の疑問が出てくる。九四式は豆戦車としては後発なので、MK.VI(1928年)以後の、1930年代初頭における、豆戦車・軽戦車の飛躍的発達が、九四式の設計にアップデートとして反映された、と考えられるわけである。九四式の設計開始が1932年7月なので、対象となるのは、1928年から1932年までの間に開発された豆戦車・軽戦車となる。タイムリミットは1932年である。 その候補の一つとして挙げられているのが、「ルノーAMR33」(1932年)である。 乗員配置が車体左側にタンデム式、エンジンが車体右側配置と、九四式とは配置が左右逆だが、Mk.VIの並列配置よりは、九四式に近いと言える。また、AMR33の車体後面左側に設けられた搭乗扉も、車体後面に配置された九四式と類似している。この搭乗扉の存在こそが、九四式の元ネタを探す上で、重要な点だと考えられる。 また、このAMR33仮説の他に、デザインのみに終わった「VM機銃車」(1931年)を候補とする仮説もある。これはルノーUEに旋回砲塔を載せたような車両である。乗員配置も車体左側にタンデム配置、エンジン配置も車体右側であるなど、AMR33の前段階と言える。 これらの仮説の根拠は、車体構成の類似の他に、当時の日本が、ルノーNC型戦車の輸入により、ルノー社とつながりがあり、当然ルノー社からこれらの豆/軽戦車も売り込みがあっても不思議ではない、とする推測による。 他にも、例えば、英語版Wikpedia「Type 94 tankette」では、「九四式の設計はヴィッカース軽戦車に似ている」としている。実際、(Mk.IVまでの)ヴィッカース軽戦車シリーズもカーデンロイド豆戦車の発展型であり、九四式はその内の、Mk.IV軽戦車にやや似ている。しかしMk.IVは1934年の量産なので、1932年のタイムリミットには間に合わない。間に合うのは、同シリーズのMk.IとMk.IIまでである。しかしこれらは、形状が似ているかと言われると、やや微妙である。 他にも、ヴィッカース社の輸出用軽戦車(商用戦車、コマーシャルタンク)である「Vickers Carden Loyd Light Tank Model 1933 - 1937」シリーズが、九四式とよく似ているが、これも開発年が間に合わない(1933年型の設計図を1932年に入手できればあるいは可能かもしれないが)。 これらヴィッカース軽戦車の乗員配置は車体左側にタンデム配置、エンジン配置は車体右側である。また、車体後面に搭乗扉は無い。 もちろん、日本独自に設計したら、偶々、あるいは、車体の大きさと重量の制約の中での合理的設計の帰結として、これらと同じような車体構成になってしまった、ということも当然ありうる。あるいは各国の車両の特徴の良いとこ取りの寄せ集めかもしれない。九四式の設計は、同様の車体構成の豆戦車・軽戦車の中でも、極めて合理的かつ洗練されていると言える。
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