丼池筋とは? わかりやすく解説

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丼池筋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/01 13:47 UTC 版)

船場丼池ストリート

丼池筋(どぶいけすじ)は大阪市中央区船場地域を南北に通じる。東の三休橋筋、西の心斎橋筋の間に位置し、北は土佐堀通から南は長堀通までに伸びる[注釈 1]。戦前は道具、高級家具を扱う問屋街として知られ、戦後繊維問屋の櫛比する所となった。

概要

蘆間薬師と蘆間池(『難波名所 蘆分船』大正13年)

丼池筋の「丼池」の名は、車町(現・南船場3丁目)にあった難波薬師( 蘆間 あしま薬師)の境内の 蘆間池 あしまがいけに因む。

蘆間薬師は、弘法大師の作という薬師仏を祀っていた。後に、薬師堂は他に移り、蘆間池は明治7年の火災後、埋められてしまった。池は一名「丼池」といったとも伝える。蘆間池は片葉の蘆を生ずるということでその名が著われ、古歌にも見えている勝区であり、かつて存在した芦池小学校の名もこれに由来している。『大阪繁昌誌』上巻(明治31年)には「今は亡びたれど塩町心斎橋筋のほとりに難波薬師といふありて、境内広く今の丼池筋にあたりたる処に広き池あり、池の中に片葉の芦を生ず、この池を丼池とよびしより町の名とはなりたるなり。この池今は井となれりとかや」とある。

蘆間池のあった車町は、現在の南船場三丁目、塩町通心斎橋筋から三休橋筋間の両側町で、東側は塩町通四丁目、西側は南勘四郎町、南は心斎町、北は安堂寺町通四・五丁目に隣接した。江⼾期は⼤坂三郷南組のうち。元は「芝居町」と称し、延宝7年の⽔帳では⾞町とある。寛永3年安井九兵衛芝居と遊所の道頓堀設置許可を得て、道頓堀に芝居町が形成される以前、新町遊郭と⻄横堀川を隔てた東側の北勘四郎町[注釈 2]・芝居町・南勘四郎町[注釈 3]の辺りに芝居⼩屋がかけられた。また、同地辺りを丼池と俗称した。明治2年⼤阪東⼤組、同3年⼤阪南⼤組に所属。同5年塩町通1〜4丁⽬となる。

丼池筋の呼称は東横堀より八筋目で、南行すると「大溝筋」とよんだ。また、古老などは「どぶいけ」ではなく「どおぶいけ」と発音した[3][4][5][6][7]

歴史と町並み

丼池筋には小さなが並び、道具屋が軒を並べたので「道具屋筋」の通称があった。道修町の町として有名であるが、丼池筋から西の通には薬屋はなかったという。大阪の商家にはいろいろの看板があったが、木彫看板が多く、こうした看板の彫刻屋が丼池筋にあった。総金箔のものや芸術的に凝ったものも数多くあった。他には指物屋、建具屋が多かった。瓦町より博労町に至る間には道具屋、建具屋、仏壇屋、漆器店、指物屋、唐木細工店、看板屋が軒を並べていた[8][9]南堀江と同様、丼池筋には家具と箪笥と商店の商品の店があり、主として自家製品を売る店が多かった。婚礼の季節には、娘を連れた親子連れが嫁入り道具を買いに来るなどの光景がみられた[10]

銅座は過書町(現・北浜三丁目)丼池筋東南角の地に比定され、今橋通の愛珠幼稚園の前に銅座跡の碑がある。また今橋通丼池筋東入るには緒方病院、緒方婦人科病院があった[11][12]

高麗橋通三丁目に「虎屋大和大掾藤原伊織」という菓子屋があり、宅地は高麗橋通丼池筋の東南側であった。京都の菓子店「塩瀬」で饅頭の製法技術を習得して、元禄15年に大阪にて開業したという。これが大阪にて饅頭を売り始めた最初であると伝える。虎屋は商品切手を発行しており、これは江戸時代の商品切手の代表的なものであった。大阪市内外の仏事供養の御茶の子に盛んに用いられ、鴻池家では元禄以来虎屋の饅頭切手に限り、一度も使わず切手を全て長持に入れていたという。これは虎屋を保護する為であった。虎屋は天保末頃から衰え、文久年間に没落した。ここに奉公していた今中伊八が、やがて製法原料一切虎屋の様式を踏襲し、伏見町丼池筋に開業し、屋号を「鶴屋」と称し、恩人である八幡屋辰邨の八幡をとって「鶴屋八幡」といい、後に高麗橋から大阪倶楽部会館の隣、今橋四丁目へ店を構えた[13]

平野町の北組惣会所跡地にあった料亭「堺卯楼」は道修町丼池にて仕出屋として開業した[14]

屋の「馬場万」は、輸入洋品雑貨店「馬場万」の支店として平野町御堂筋の交差点角に店を構え、本店の閉店後「馬場万鞄店」と改称した。馬場万の鞄は内村鑑三原敬棟方志功などが愛用し、明治43年の日英博覧会ではトランクを出品している。昭和6年御堂筋拡張のため平野町丼池筋角に移り、後に東心斎橋一丁目に移った[15][16]

丼池筋淡路町通上る西側には⼤正4年に⿅⽥松雲堂(安土町四丁目)から独⽴し別家した中尾熊太郎の『中尾松泉堂』があり、開店当初から掲げた看板が店先にある[17]

北久宝寺町通の西側、丼池筋より御堂筋の少し東までは「伝馬町」といい、俳諧師上島鬼貫が居を構えていた[18]

芦池小学校(『南区志』大阪市南区 昭和3年)

丼池筋順慶町から安堂寺橋通にあった芦池小学校は、明治6年6月25日に開校した南区第六小学校を創始とし、以下のように再編が行われた。

  • 明治8年4月30日 - 第二大区第四小区六番小学校
  • 明治8年7月5日 - 第二大区六番芦池小学校
  • 明治12年2月18日 - 南区芦池小学校
  • 明治19年6月1日 - 公立芦池小学校
  • 明治20年4月29日 - 南区芦池尋常小学校
  • 明治23年4月1日 - 大阪市芦池尋常小学校

明治8年の火災で校舎が類焼した際、当時戸長であった浮田桂造は自らの家も同様に類焼したにも関わらず、区長の辻井三郎兵衛を援助し、佐野屋橋北詰と順慶町井戸の辻の二ヶ所にあった寄席を借り受けて臨時校舎を設けた。その後、安堂寺橋通三丁目に敷地を買収し、翌9年9月に校舎が落成した。明治26年保育科が芦池幼稚園と改称され、順慶町通三丁目に教室を増設し更に裁縫専修室も新築した。明治35年3月26日裁縫専修科を廃し裁縫学校としたが、翌36年3月に廃校した。明治42年学校の大規模な改築が行われ、同年11月に落成した。大正4年筋向かいにあった憲兵屯所が移転し、跡地に幼稚園舎が新築された。大正12年7月に更に改築が行われ、翌13年3月に鉄筋コンクリート造りの三階建ての新校舎が落成した[19]

戦後の丼池筋は、板置き問屋とよばれた大小数百の繊維問屋がひしめき「船場丼池問屋街」が形成された。そのため一時は、丼池が船場の代名詞の如く用いられたことがあった。丼池の繊維問屋は小売しない建前であったが、する店もあったという。丼池筋の繊維問屋街は新興の問屋街として旧いお店風に代わって、新しい商習慣や労働慣行がうまれた。大大阪時代船場の商家の多くは阪神間へ移り住み、船場は生活の場としての賑わいは薄れたが、戦後に繊維問屋街として発展した丼池筋付近や北久宝寺町・南久宝寺町雑貨問屋街は、かつての船場の面影をわずかに残すものとなっていた[20][21]1960年代、丼池筋ほか船場の繊維問屋は箕面市南部の繊維団地へ移転し、1995年に問屋街のアーケードは撤去され、後に「船場丼池ストリート」として整備され、春夏はグリーン、秋冬は⾚⾊のフラッグが⽴てられ、⼣⽅からは55基の街路灯が⽴ち並ぶ景観となった[22][23]

施設・名所・旧跡など

丼池繊維会館
適塾
愛珠幼稚園
銅座跡の碑
  • 緒方洪庵旧宅・適塾 - 内北浜線丼池筋東入る南側
  • 日本生命本店東館 - 内北浜線~今橋通西側
  • 愛珠幼稚園 - 内北浜線~今橋通東側
  • 銅座跡の碑 - 今橋通北東角
  • 緒方ビル - 今橋通東入る南側
  • 大阪薬学大学発祥地の碑 - 道修町通東入る北側
  • 田辺三菱製薬史料館 - 道修町通東入る南側
  • 北垣薬品本館 - 道修町通東南角
  • 北組惣会所跡 - 平野町通西入る北側
  • 湯木美術館 - 平野町通西入る南側
  • 中尾松泉堂 - 淡路町通上る西側
  • ヴィアーレ大阪(旧船場小学校跡地) - 安土町通北東角
  • 船場丼池ストリート - 本町通~南久宝寺町通
  • 江綿1ビル - 南本町通東入る南側
  • 江綿2ビル - 南本町通東入る北側
  • 船場センタービル7・8号館 - 船場中央(旧唐物町・北久太郎町通)
  • OSKビル(元大阪繊維共同販売所) - 中央大通通下る東側
  • 丼池繊維会館(旧愛國貯蓄銀行) - 南久太郎町通北東角
  • 久宝公園 - 北久宝寺町通東入る北側
  • 萬栄1号館 - 博労町通上る西側
  • 萬栄2号館 - 南久宝寺町通上る西側
  • 南久宝寺町問屋街 - 南久宝寺町通東横堀筋~御堂筋
  • 松葉屋 - 順慶町通上る西側
  • 南船場会館 - 安堂寺橋通西入る北側
  • 大阪市立南幼稚園 - 安堂寺橋通北東角
  • 芦池地蔵尊と楠(旧芦池小学校跡地) - 安堂寺橋通北西角
  • 絲漢堂跡の碑 - 安堂寺橋通東南角

かつて存在した施設

久宝小学校
  • 夢の浮橋 - 南本町通心斎橋筋から丼池筋の間にあった橋[24]
  • 絲漢堂 - 蘭学者橋本宗吉の私塾
  • 大阪高麗橋三郵便局 - 明治11年創業。高麗橋通丼池筋から三休橋間の北側にあり、大阪最古の郵便局のひとつとされる[25]
  • 船場小学校 - 安土町通に面し、新館は鉄筋、旧館は赤レンガの校舎であった[26]
  • 久宝小学校 - 北久宝寺町通北西角にあった。
  • 芦池小学校 - 大阪市立南幼稚園の筋向かいに立地。校名の由来は蘆間池から。
  • 白井松器械店 - 医療機器店。道修町通丼池筋東入る北側にあった[27][28]
  • 前川合名会社楽器及び書籍教材店。前身は南久宝寺町通心斎橋筋の書肆『文栄堂』。塩町通丼池筋東入る南側にあった[29][30]

脚注

  1. ^ 「大阪圖 元祿十六年」『大阪市史 附図』大阪市、昭和2年
  2. ^ 「大阪圖 元祿十六年」『大阪市史 附図』大阪市、昭和2年
  3. ^ 『大阪市史 第五』(再版)大阪市、昭和2年、13, 74頁
  4. ^ 『南区志』大阪市南区、昭和3年、17頁
  5. ^ 宮本⼜次『船場』ミネルヴァ書房(⾵⼟記⼤阪第1集)、1960年、338, 427頁
  6. ^ ⾹村菊雄『⼤阪慕情 船場ものがたり』神⼾新聞出版センター、1976年、11頁
  7. ^ 角川日本地名大辞典 車町
  8. ^ 宮本(1960年)、339頁
  9. ^ 前川佳子・近江晴子『船場大阪を語りつぐ』和泉書院、2016年、31-32頁
  10. ^ 東出清光『大阪案内』大阪商品研究会編集部、昭和16年、113頁
  11. ^ 『大大阪画報』大大阪画報社、昭和3年、743, 745頁
  12. ^ 宮本(1960年)、54, 107頁
  13. ^ 宮本(1960年)、136-137頁
  14. ^ 宮本(1960年)、238頁
  15. ^ 前川・近江(2016年)、207-208, 213頁
  16. ^ 手作りかばん 馬場万
  17. ^ 宮本(1960年)、260頁
  18. ^ 宮本(1960年)、204, 351頁
  19. ^ 大阪市南区(昭和3年)269-273頁
  20. ^ 宮本(1960年)、389頁
  21. ^ 香村(1976年)、217頁
  22. ^ 『船場ガイドブック 2016』船場げんきの会・愛日地域活動協議会、2016年、8頁
  23. ^ ⼤阪船場丼池ストリートへようこそ
  24. ^ 宮本(1960年)、299頁
  25. ^ 前川・近江(2016年)、268頁
  26. ^ 前川・近江(2016年)、71頁
  27. ^ 大大阪画報(昭和3年)、791-792頁
  28. ^ 前川・近江(2016年)、31頁
  29. ^ 『大阪地籍地図』吉江集画堂、1911年、南区及接続町村之部5頁
  30. ^ 大大阪画報(昭和3年)、538頁

注釈

  1. ^ 長堀通以南は心斎橋東通
  2. ^ 現・南船場四丁目、安堂寺橋通渡辺筋から御堂筋の辺り[1]
  3. ^ 現・南船場三・四丁目、塩町通心斎橋筋から佐野屋橋筋の辺り[2]

参考文献

  • 宮本⼜次『船場』ミネルヴァ書房(⾵⼟記⼤阪第1集)1960年
  • ⾹村菊雄『⼤阪慕情 船場ものがたり』神⼾新聞出版センター 1976年
  • 前川佳子・近江晴子『船場大阪を語りつぐ 明治大正昭和の大阪人、ことばと暮らし』和泉書院 2016年

関連項目




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