中華人民共和国での活動
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中華人民共和国では、最初に広東省教育工会主席に任ぜられている。1951年、許崇清は中山大学校長に任命されたが、これは、本来は別の人物が校長に就任予定であったところを、毛沢東が強く要望して許を校長に就任させたものであったとされる。1953年1月には中南行政委員会委員も兼ねた。同年、広東省人民委員会委員兼文教委員会副主任となる。翌年、第1期全国人民代表大会代表に選出された(以後、第2期・第3期でも連続選出)。1955年からは中国民主促進会の要人となり、8月に同会第4期中央委員会常務委員会常務委員に選出されている(続く第5期でも選出)。1961年12月からは、2期にわたって広東省副省長を務めた。 しかし文化大革命が起きると、許崇清も批判にさらされることになる。1969年3月14日、批判を被ったストレスのため心臓病を引き起こし、広州市にて病没。享年82(満81歳)。
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中華人民共和国での活動
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「ブルハン・シャヒディ」の記事における「中華人民共和国での活動」の解説
ブルハン・シャヒディは、中華人民共和国の改組により成立した新疆省人民政府主席にそのまま留任し、1955年の新疆ウイグル自治区への改組まで在任した。このほかにも新疆省では、省政治協商会議主席、省民族自治委員会主任委員、省高等法院院長、中国共産党中央新疆分局、西北軍政委員会委員なども務めている。中央においても、全国人民代表大会常務委員・民族委員会副主任委員、中国イスラム教協会主任、中国人民政治協商会議全国委員会(第1期常務委員、第2~6期副主任)、国務院民族事務委員会副主任などを務めた。外交分野では、中ソ友好協会西北総会副会長、中国インドネシア友好協会会長、中国エジプト友好協会会長を歴任する。学問分野では新疆大学校長、中国科学院学部委員兼民族研究所所長、中国外交学会理事などを務めた。 1966年からの文化大革命では、ブルハン・シャヒディも批判対象とされ、ついには逮捕・監禁されるに至った。1976年にようやく釈放され、その後は『中国大百科全書』総編輯委員会委員、中国民族古文字研究会名誉会長、中華人民共和国憲法改正(原文「修改」)委員会委員などを歴任した。1989年8月27日、北京市にて病没(満94歳)。
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