中華人民共和国での失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/07 05:58 UTC 版)
1949年に入ると、楊虎は完全に共産党への協力姿勢を示すようになった。同年4月には、南京を守備していた旧部下と連絡を取り、中国民主同盟(民盟)主席の張瀾と副主席の羅隆基を救出している。10月1日の中華人民共和国建国式典にも楊は出席し、中央人民政府政務院(後の国務院)顧問に任ぜられた。 ところが楊虎はこの地位に満足できず、中国人民政治協商会議全国委員会委員になりたがったとされる。そして不満を抱いた末に、蒋介石や重光葵宛に密書を送って大陸反攻を唆そうとした。密書は発送前に当局に発見され、楊は逮捕される。1958年から裁判にかけられ、最終的に執行猶予2年ながらも死刑判決を受けてしまった。 その後、楊虎は病が重篤であったために医療を付されたが、1966年3月、北京市の復興医院にて病没した。享年78。
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