中浜での戊辰戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 04:57 UTC 版)
「中浜 (村上市)」の記事における「中浜での戊辰戦争」の解説
1868年(明治元年)、政府軍が海や陸から北進したことで庄内領(現在の山形県の庄内地方)の海岸に軍艦が現れるようになり、同年8月11日には政府軍の軍艦が鼠ヶ関(庄内)にて5、6発砲撃をし立ち去るなどしていた。陸からも北進していた政府軍に対して庄内軍も斥候を出し、府屋方面(中浜の南に位置する村)にいた政府軍を探っていた。 8月22日夜には多くのかがり火が焚かれ、府屋に多くの政府軍が到着したと思われ、翌日大兵力が来ると考えた庄内軍が直ちに夜襲すべきと、明け方の午前3時に出撃し、中浜で兵を海岸と山手で二分した。山手から攻める小隊は隠れ家にならないよう家に火をつけ焼き払った。尚、この時焼かれたのは6つの村で府屋・岩崎・塔下・堀之内・温出・大谷沢だった。これが功を奏し、政府軍は南の勝木の方へ後退。庄内軍も鼠ヶ関へ戻った。 同月26日、政府軍の総攻撃があり府屋の方から大砲を放ちながら攻めた。また、中浜村周辺では漁船に砂を盛り胸壁(敵の弾丸を防ぐための壁)にして、鉄砲で攻めた。その総攻撃に対し庄内軍は「鼠齧り岩」と山の方に立て籠もり戦った。地の利を得ている庄内軍に対し、政府軍は多くの戦死者を出した。また、ここが最後の国境線であるため庄内軍も死に物狂いで戦い、中浜が山北での戦いの激戦区となった。中浜での戦いを含む3つの羽越国境での攻防は熾烈を極め、8月下旬から9月初めにかけて繰り広げられた。 そして、庄内軍は援軍の軍艦が台風に見舞われ大破するなどうまくいかず、また味方の米沢・仙台藩が降伏して敵に回り、窮地に追い込まれた為、9月17日に庄内藩主酒井忠篤の名で降伏を願い出て、庄内戦争は政府軍の勝利で幕を閉じた。また、9月22日には会津若松城が落ち戊辰戦争は終わった。 1869年(明治2年)- 明治政府により中浜の関所を含む、諸国の関所や口留番所が廃止され、往来手形無しで、自由に旅ができるようになる。 1877年(明治10年) - 6月23日、原海村と中浜村が合併。原海村は1746年(延享3年)の「村指出明細書」に人家・入会(いりあい)なしで中浜村支配原海村と記されていた特殊な村であった。 1879年(明治12年) - 中浜区有文書によると当時の家数は38戸であった。。 1890年(明治23年) - 県道鼠ケ関線が通ることになったため「鼠齧り岩」を削ることとなった。それに伴い、鼠齧り岩の突端に祀られていた石動神社と同岩の小穴に祀られていた石像は県道の山側に移された。県道が通るまでは、仏崎(鼠齧り岩の位置する地名)の浜側にあったヤッコ岩の洞穴と岩穴との間を通行していた。 1904年(明治37年)中浜と鼠ヶ関(山形県)の漁師の移住により北の県境に伊呉野村が形成される。
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