両替屋の株組織
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 03:28 UTC 版)
両替屋はやがて本両替(ほんりょうがえ)と、脇両替(わきりょうがえ)に分化した。本両替は小判および丁銀の金銀両替および、為替、預金、貸付、手形の発行により信用取引を仲介する業務を行う。脇両替はもっぱら銭貨の売買を行った。本両替は江戸では本両替仲間、大坂では十人両替仲間を形成し、相場立会いなどについて協定した。両替屋は大坂に本店を置くことが多く本両替が発達し、江戸は支店が多く脇両替が多く見られ、京都はその中間的な性格を持っていたといわれる。さらに地方の都市にも開業され、大坂の両替屋を中心に互いに連絡を取り合い三貨制度の発達に貢献した。本両替を利用したのは大名、有力商人など大口取引を行う者に限られ、町人などが一般に利用したのは脇両替すなわち銭屋(ぜにや)であった。銭屋の数は次第に増加し、元禄期には組合を形成するまでに成長し、享保3年(1718年)には幕府から正式に株仲間として公認されるに至り600人を数えた。 江戸では金銀両替および金融業務を行う本両替(16人)、もっぱら小判、丁銀、および銭貨の両替を行う三組両替(神田組・三田組・世利組)および銭貨の売買を行う番組両替(一 - 二十七番)に分化していった。三組両替および番組両替には酒屋および質屋などを兼業するものも多かった。 大坂で本格的な両替屋を初めて創業したのは、慶長年間の天王寺屋五兵衛が通説となっている。のちに小橋屋浄徳、鍵屋六兵衛らが加わり、手形を発行し積極的に金融業務に関り、寛文2年(1662年)に大坂町奉行により3名が正式に幕府御用を務めるにいたった。その後、寛文8年(1668年)には6人に倍増し、同10年(1670年)には10人となり、十人両替仲間を形成するにいたり、幕府の経済政策に協力する義務を負い両替屋仲間の監督機関の役割を果たし、相場立会いなどについて協定する権利を有した。丁銀、小玉銀による大口取引は秤量がわずらわしいため両替屋を通じて行われる手形による信用取引は不可欠となり、それにともない不正も行われ、幕府は大坂町奉行にこれを取り締まらせた。大坂の脇両替は十人両替とは独立して仲間組織を結成し、三郷銭屋仲間(北組・南組・天満組)と南仲間両替があった。 初期の大坂の十人両替 天王寺屋五兵衛 新屋九右衛門 鍵屋六兵衛 坂本屋善右衛門 天王寺屋作兵衛 新屋杢右衛門 泉屋兵兵衛 誉田屋孫右衛門 鴻池善右衛門 助松屋利兵衛 諸藩における商品調達および年貢米売却などの代金の管理、また国許および江戸屋敷への送金、さらに資金が不足した場合の貸付、いわゆる「大名貸」を行う役職は掛屋(かけや)と呼ばれ、大手両替屋の中から任命されることが多かった。
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