両晋王に服属
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/16 21:46 UTC 版)
318年3月、安定郡太守焦嵩・討虜将軍陳安が上邽に割拠する南陽王司馬保を攻撃すると、司馬保は張寔の下へ使者を派遣して救援を要請した。張寔はこれに応じ、金城郡太守竇濤を軽車将軍に任じ、威遠将軍宋毅を始め和苞・張閬・宋輯・辛韜・張選・董広らと歩騎2万を与え、司馬保救援に赴かせた。軍が新陽に到達した時に愍帝が崩御したという報が届き、張寔は喪服を着て哀悼の意を示し、三日間慟哭した。 この時期、司馬保は帝を僭称しようと目論んでおり、破羌都尉張詵は「南陽王(司馬保)は大きな恥辱を忘れ、皇帝を自称しようとしております。天から図讖・符命の書などは授かっておらず、これまでもただ定められた命に順応してきただけであり、徳行も不足しております。この困難を救うことが出来る人物ではありません。晋王(司馬睿)は才徳を兼備しており、公とも親しい間柄であり、先帝も頼りとして心を寄せている人物でした。上表してその聖徳を称賛し、帝位に即くよう勧めるべきです。また、檄を諸藩に伝え、相府(司馬保)へも再度書を送って信義を見せ、晋王と争うのを止め、党人を集めずに散亡させるよう伝えるのです」と勧めた。張寔はこれに同意し、天下に檄文を送って司馬睿を天子とするよう意向を伝えた。さらに、牙門蔡忠を江南へ派遣し、司馬睿へ尊位に即くよう勧めた。司馬睿は同年の内に建業において即位し、改元して太興とした。だが、張寔は引き続き西晋の年号である建興を用い、改元に従わなかった。これは東晋への従属を拒む行為とも取れるので、これをもって前涼の成立とする説もある。 319年1月、司馬保は愍帝が崩御した事を知ると、晋王を自称し、独自の年号を建てて自ら百官を任命した。また、使者を派遣して張寔を征西大将軍・儀同三司に任じ、3千戸を加増した。 陳安が氐族・羌族を従えて司馬保を攻撃すると、司馬保は進退窮まって上邽から祁山へ逃れた。張寔は配下の韓璞に歩騎五千を与え、司馬保の救援に向かわせた。これにより陳安は軍を退いて綿諸を守り、司馬保は上邽へ再び帰還したが、その後間もなく司馬保は再び陳安に敗れ、使者を派遣して張寔に救援を要請した。張寔は宋毅を派遣して陳安を攻め、撤退させた。ほぼ同時期、司馬保は劉曜からも攻撃を受けたので桑城へ逃れ、さらに張寔のいる涼州へ逃走しようと考えた。だが、張寔は彼が宗室の中でも声望があった事から、河西に来ることで人心が自分から移ってしまうことを恐れた。その為、張寔は配下の陰鑒(陰澹の弟)を派遣して司馬保を迎えさせたものの、護衛すると公言して実際には彼がやってくるのを阻んだ。間もなく司馬保が亡くなると、彼の配下の者はみな逃走し、涼州に身を寄せる者が1万人余りに及んだ。 張寔は河西が険阻であり遠方にあることから、次第に驕り高ぶるようになったという。
※この「両晋王に服属」の解説は、「張寔 (前涼)」の解説の一部です。
「両晋王に服属」を含む「張寔 (前涼)」の記事については、「張寔 (前涼)」の概要を参照ください。
- 両晋王に服属のページへのリンク