世襲化と専横
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 09:31 UTC 版)
だが、スレイマン1世の治世に行われたイェニチェリの急速な拡大は、軍事組織の構造に変化をもたらし、しばしばオスマン帝国の軍事的衰退の原因とされている。 同世紀以降からは、デヴシルメによらないで入隊した、つまり生まれながらにムスリムであるトルコ系の者が増えた。また禁じられていた妻帯も普通に行われるようになって、その子供を入隊させるようになったため、事実上の世襲となり、軍紀が乱れるもととなった。 イェニチェリは各都市においてギルドと結びついて顔役・無頼のような行動をとり、政治にも介入した。特に首都ではしばしば反乱を起こし、ときには宰相を更迭させたり、君主を廃位したりした。特に17世紀ではスルタンを廃位に追い込んだ事例が多く、17世紀中に即位した9人のスルタンの内廃位による最後が6回あったが、うち4回はイェニチェリによって廃位に追い込まれ、スルタン2名(オスマン2世とイブラヒム)が殺害されている。かつてはこうした反乱は軍規の弛緩や帝国の衰退とされることが多かったが、研究者のバーキー・テスジャンは分権化の進展と社会構造の変化で生まれた王権の乱用にステークホルダーたちが起こしたリアクションで17世紀頃のイェニチェリは都市(イスタンブル)の市民と結びついた立場であり、民衆の革命によって王が廃位される事例は欧州(イギリスの清教徒革命や名誉革命など)でもこの時期見られているとしている。 オーストリア国境での戦争時には、国境地帯のセルビア人居住地域から略奪を行い、また勝手に住み着いて支配階級として振舞ったりしている(ちなみに鎮圧活動は同時期のナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征に対抗するための兵力としてイェニチェリが必要とされたため、中止された)。 18世紀後半に入ると、イェニチェリはヨーロッパ各国の歩兵と比較すると完全に時代遅れとなり、改革が急務とされるようになると、その必要性も揺らぐこととなった。 1793年、セリム3世はイェニチェリとは別に新式歩兵軍「ニザーム・ジェディード」をつくり軍事改革を試みるが、1807年にイェニチェリの反対により廃位、幽閉され、のちに改革派がクーデターで救出を試みたため、1808年に従兄弟のムスタファ4世によって処刑されるも、ムスタファ4世の弟マフムトが逃げのびたことで反乱軍によってムスタファ4世も廃位に追い込まれ、この弟がマフムト2世として即位した際、彼を擁立した改革派のアレムダル・ムスタファ・パシャが権力を握ったが、まもなくイェニチェリによって殺害された。 このように、旧式軍であるイェニチェリはオスマン帝国の反改革・保守派勢力の牙城と化しており、その専横は目に余るものが多く、すっかり帝国内における改革の妨げとなっていた。
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