上杉鷹山の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:29 UTC 版)
詳細は「上杉治憲」を参照 第9代藩主の治憲(鷹山)は日向高鍋藩秋月家の生まれで養子であるが、生母が秋月藩黒田氏に嫁いだ上杉綱憲の孫娘なので全く上杉家と無縁というわけではない。明和4年(1767年)に鷹山は家督を継ぐ。前述のように米沢藩は極端な財政難と政治腐敗で藩政が破綻寸前にあった。このため鷹山は、藩政と財政の再建を目指して自らが家督相続した強い決意を示し、さらに大倹約を主旨とした大倹令を発布した。また自らの生活費を大幅に切り詰め、奥女中も大幅なリストラを行った。他にも殖産興業政策、籍田の礼、世襲代官制度の廃止、備荒20ヵ年計画など改革は次々と実行され、鷹山の時代に米沢藩は息を吹き返すことになった。 だが鷹山の改革は上杉家譜代の老臣らから根強い反対があり、1度は七家騒動において須田満主、芋川正令らが処分されたが、改革も後半になると再び老臣らが鷹山の腹心となっていた竹俣当綱を失脚させるなどした。また天明の大飢饉などで改革が停滞に入ったことも事実であり、鷹山は天明5年(1785年)に隠居し、第10代は重定の四男の治広が継承した。しかし治広と第11代藩主の斉定はいずれも鷹山の後見を望んだため、以後も鷹山の改革が続行されることとなる。 鷹山は停滞した改革を再び再建するため、借財返済の延期懇請と財政支出の大幅緊縮を行った。しかし外国船の日本接近による軍役や家臣が多すぎる問題などから、財政は再び悪化していた。このため鷹山は寛政期に入ると、等級の区別無く有能な人材を大量に召しだして登用した。また財政再建16ヵ年計画を定め、農村復興計画や上書箱の設置、緊縮財政から領民保護など様々な改革を行った。一方、藩財政の悪化から事実上廃絶していた藩校興譲館を再興した。福祉政策も充実させて、滅亡寸前だった米沢藩を再建した名君上杉鷹山は、文政5年(1822年)3月に死去した。
※この「上杉鷹山の時代」の解説は、「米沢藩」の解説の一部です。
「上杉鷹山の時代」を含む「米沢藩」の記事については、「米沢藩」の概要を参照ください。
- 上杉鷹山の時代のページへのリンク