三九郎死後の帰島の挑戦と挫折とは? わかりやすく解説

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三九郎死後の帰島の挑戦と挫折

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)

還住 (青ヶ島)」の記事における「三九郎死後の帰島の挑戦と挫折」の解説

三九郎死後青ヶ島島民らは帰島諦めことはなかった。寛政11年1799年9月33名の青ヶ島島民青ヶ島向かった。しかし今度の船も漂流のあげく紀州漂着した結局乗組員のうち1名が死亡したが、32名は無事に八丈島へ戻ることができた。 享和元年6月7日1801年7月17日)、青ヶ島復興従事し続けてきた7名は青ヶ島去り、翌6月8日八丈島着いた寛政7年1795年4月以降6年あまり八丈島からの船が到着するとがない中での孤軍奮闘幕を閉じた八丈島役所提出され報告によれば食糧としてのほかにアシタバソテツユリなどの野生植物や漁をしながら何とか生きてきたが、衣服鍋釜などが使用に耐えなくなってくるなど青ヶ島での生活の継続が困難となったため、火山灰埋もれた家のなどを材木とし、山刀や鍬を潰して釘を作って船を建造し八丈島向かったという。享和元年1801年6月以降青ヶ島しばらくのあいだ無人島となった享和3年1803年6月勘定奉行松平信行の手代である秋元利右衛門が、八丈島島民の半右衛門青ヶ島名主多吉らを伴い無人島となっていた青ヶ島見分実施した。そして文化3年1806年5月青ヶ島起返願人となった右衛門名主多吉らは江戸向かい青ヶ島復興計画提出した。この計画家屋再建から鬢付油代まで算定した詳細なものであり、復興には924両あまりの費用要すとした。しかし文化4年1807年)には大風のために八丈島飢饉見舞われその後文化8年1811年)まで飢饉続き餓死者も相次いだ八丈島居候する形の青ヶ島島民大変に厳しい状況追い込まれたが、八丈島厳し困窮状態の中では青ヶ島への帰島実施に移す余裕はなかった。天明5年1785年)の離島以後20年上の年月経過し青ヶ島生活した経験を持つ島民は、復興時の相次ぐ海難事故もあって次々と世を去っていた。青ヶ島島民中には八丈島避難後に生まれ青ヶ島知らない世代増えつつあり、青ヶ島への帰島実現は困難を増していった。

※この「三九郎死後の帰島の挑戦と挫折」の解説は、「還住 (青ヶ島)」の解説の一部です。
「三九郎死後の帰島の挑戦と挫折」を含む「還住 (青ヶ島)」の記事については、「還住 (青ヶ島)」の概要を参照ください。

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