三九郎死後の帰島の挑戦と挫折
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「還住 (青ヶ島)」の記事における「三九郎死後の帰島の挑戦と挫折」の解説
三九郎の死後も青ヶ島島民らは帰島を諦めることはなかった。寛政11年(1799年)9月、33名の青ヶ島島民が青ヶ島へ向かった。しかし今度の船も漂流のあげく紀州に漂着した。結局、乗組員のうち1名が死亡したが、32名は無事に八丈島へ戻ることができた。 享和元年6月7日(1801年7月17日)、青ヶ島で復興に従事し続けてきた7名は青ヶ島を去り、翌6月8日に八丈島へ着いた。寛政7年(1795年)4月以降、6年あまり八丈島からの船が到着することがない中での孤軍奮闘も幕を閉じた。八丈島役所に提出された報告によれば、食糧として芋のほかにアシタバ、ソテツやユリなどの野生植物や漁をしながら何とか生きてきたが、衣服や鍋釜などが使用に耐えなくなってくるなど青ヶ島での生活の継続が困難となったため、火山灰に埋もれた家の柱などを材木とし、山刀や鍬を潰して釘を作って船を建造し、八丈島へ向かったという。享和元年(1801年)6月以降、青ヶ島はしばらくのあいだ無人島となった。 享和3年(1803年)6月、勘定奉行松平信行の手代である秋元利右衛門が、八丈島の島民の半右衛門や青ヶ島名主の多吉らを伴い、無人島となっていた青ヶ島の見分を実施した。そして文化3年(1806年)5月、青ヶ島の起返願人となった半右衛門と名主の多吉らは江戸に向かい、青ヶ島の復興計画を提出した。この計画は家屋の再建から鬢付油代まで算定した詳細なものであり、復興には924両あまりの費用を要すとした。しかし文化4年(1807年)には大風のために八丈島は飢饉に見舞われ、その後、文化8年(1811年)まで飢饉は続き、餓死者も相次いだ。八丈島に居候する形の青ヶ島島民は大変に厳しい状況に追い込まれたが、八丈島が厳しい困窮状態の中では青ヶ島への帰島を実施に移す余裕はなかった。天明5年(1785年)の離島以後20年以上の年月が経過し、青ヶ島で生活した経験を持つ島民は、復興時の相次ぐ海難事故もあって次々と世を去っていた。青ヶ島島民の中には八丈島避難後に生まれ、青ヶ島を知らない世代も増えつつあり、青ヶ島への帰島の実現は困難を増していった。
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